たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

高齢者の意思能力

2016-10-25 | 日記

高齢者の意思能力

 

農村や漁村などでは高齢者が割合お元気にされています。農作業も90歳くらいまではその人の調子に合わせてされているように見受けられます。しんどいときは休む。夏は朝夕の涼しいときにさっさと作業する。毎日その人が自分で負担にならない程度をわきまえてこつこつと作業しているように思えます。ある意味見事な処世術でしょうか。

 

世の中は、オレオレ詐欺とか、子どもから、あるいは施設の介護者からの虐待といった、いろいろ悲しくなる事件が聞こえてきます。

 

ところで私自身、高齢者の方から、いろいろな相談を受けたり、事件処理を引き受けたりしてきましたが、悩ましい問題の一つがその意思能力を的確に判断することの難しさです。

 

普通に日常的な話しは受け答えができる人が、財布がなくなったのは妻が持ち出したのだとか、預金が勝手に下ろされているが、長男の嫁がやったとか、別居したのに夫が近くで見張っているとか、さまざまな深刻な訴えがあります。それぞれ丁寧に一つ一つ本人の訴えに沿って仕事を勧めます。家の中を一緒に探したり、子どもに話しを聞いたりしていると、夫が一人で住んでいる家の庭の土の中から出てきたりします。あるいは別のケースでは銀行で過去の預金取引履歴を出してもらったり、預金払い戻し請求の書類を出してもらったりすると、どうも本人の署名で間違いないことが分かったりします。この種の問題は、多種多様に起こっています。

 

そのような問題の核心は、高齢者(には限りませんが)の意思能力の低下、喪失について、判断することの難しさも関係します。最近の裁判例で、興味深い事例がありました。土地取引といった場合、多くの関係者が関与します。このケースでは、ご本人は当時58歳ですから高齢者手前ですが、医師、公証人、司法書士、弁護士、宅建業者、そして裁判官といった専門家が、いずれも意思能力の有無をそれぞれの専門的見地から判断しています。ところが、それぞれ異なってしまったのです。

 

事の発端は、母親が娘に遺産である土地を全部相続させるという遺言を残したことが始まりです。それに異を唱えた兄が妹と、その10分の9については遺留分減殺合意を、残りは自己に売り渡す契約をして、公正証書を作成し、登記も了し、兄が全部を取得しました。兄は直後に不動産業者に1.3億円で売却したのです。

妹は子どもの頃統合失調症に罹患し、継続して治療を受け、兄との合意当時も入院中で、妹に成年後見が開始しました。後見人となった弁護士が兄との合意について意思能力がなく無効であるとして、兄と買主の不動産業者を相手に、各登記の抹消を求めて訴え提起し、裁判所で認められ、判決が確定し、不動産業者は土地所有権を失いました。これが最初の裁判。

次に、その業者が、登記手続きをした司法書士を相手に、妹の意思能力の欠如を前提に、司法書士が委任者の登記意思やその能力、意思能力の有無を確認すべき義務を負うのに、怠ったなどを理由に損害賠償請求の訴訟を提起したのですが、こんどは裁判所が妹の意思能力を認め、敗訴となっています。

 

2つの訴訟では、成年後見申立の際に主治医の診断は統合失調症等を理由に判断能力欠如としたのに対し、公証人は意思能力を認め、司法書士も同様です。これに対し、成年後見人となった弁護士は意思能力なしと判断して訴訟提起し、その訴訟では裁判官もこれを認めたのです。

これに対し後の訴訟では、裁判官は、カルテなど診療記録を基に、妹の症状経緯を詳細に分析し、医師の回復可能性がないとの診断の誤りを指摘し、公正証書作成や登記手続き時点で意思能力があったことを認めています(平成24627日東京地判・判例時報217836頁)。判決文を読む限り、後者の裁判官の認定に軍配を上げたいですね。

 

成年後見事件で申立人や後見人として仕事をしているとよく分かるのですが、医師の診断が主治医であっても、この分野については妥当しないことが少なくないように思っています。精神状態というのは、必ずしも安定的なものでないこと、意思能力という法律行為をする能力については医師の診断も一要素に過ぎないことなど、指摘できるかもしれません。

 

ところで、公証人は、一般に、本人かどうかの確認や、意思能力の有無をできるだけ的確に判断するように、長谷川式などを参考に質問しどのような回答があったかとか、付添の家族の情報をしっかり記録している人が多いと思います。司法書士や弁護士にもそのようなチェック機能とその記録が求められていると思います。

ただ、最も基本は、ご本人に対する礼節と親和の心をおろそかにしないことと思うのです。明治維新の前後に訪れた異国人から日本人が敬意をもって見られた大きな要素の一つは、他人に対し礼節をと親和の気持ちをもって処する姿勢ではないかと思います。

 

とはいえ、私はこのような最近の傾向を垣間見ながら、般若心経を思い浮かべてしまいます。お金や資産といった形は実体がないのですから(色即是空、空即是色)、結局、感覚も意志も知識もないのですので(無受想行識)、思い悩んでもしかたないことかもしれません。