第一回大畑才蔵歴史ウォーク
大畑才蔵を語る 序 ウォークイベント
わが国は、日本書紀で「豊葦原千五百秋瑞穂国」とされ、「瑞穂」がみずみずしい稲穂を意味し、稲が多く取れることから瑞穂の実る国、「瑞穂の国」といわれてきたとの見方が当たり前のような感じもあります。はたして稲で象徴されるお米が一般の人々にとって中核の食物であったかどうかについては、縄文人はもちろん弥生人、さらには戦後初期までそういえないように思っています。
とはいえ、米作をめぐる努力は並大抵ではなかったと思います。とりわけ陸稲よりも水稲を選んだわが国の稲作には、水の確保が最も重要な問題といってよいでしょう。古きは葦原のある湿地(奈良盆地や大阪古代の河内湖など)の干拓や、小河川からの潅漑、ため池用水などにより、小規模な田の耕作が連綿と続いたのだと思います。
おおきな変革期は、戦国期を終え、平和な徳川時代に入り、河川潅漑、とりわけ大規模河川から大容量の潅漑用水を確保することにより、飛躍的な収穫量の増大をもたらしたのだと思います。それはある意味で、軍事的技術の平和転用ではなかったかと愚考しています。
戦国末期、秀吉の松山城水攻めを含め、河川流水をせき止めて城をその河川水で包囲した戦略が技術的には急速に秘密裏に開発(いわば秘伝)されていったのではないかと思うのです。若山(現和歌山)を根拠として、織田・豊臣に脅威を与えていた雑賀衆に対して、紀ノ川をせき止め水攻めで降伏させたのが戦国時代の終焉をもたらしたとの見解もあります。このような河川をせき止め、堤防をつくって河川水を流す技術は、平和になれば、全国各地で潅漑用水事業の技術転用として花開いたのではないかと思うのです。
ところで、紀ノ川は河岸段丘が広がっていて、目の前の河川流水を利用することができず、ため池用水が中心でした。そのため水不足で米の収穫量がわずかな場所が紀ノ川北岸では当たり前でした。
ここに見出しの人物が颯爽と登場したのです。紀ノ川の上流にある学文路村(現橋本市内)の庄屋、大畑才蔵は、百姓でありながら、数学的才能が秀でた上にたぐいまれな調査能力を培っていました。そして元禄期、当時で言えば隠居する55歳になり、潅漑用水事業における事前調査や堤防の安全設計の技術、潅漑水路の勾配管理について独特の水盛り器を作成してみごとな測量技術を活用するなどして、紀ノ川の東端から和歌山当たりまで、大規模河川での大型潅漑用水事業を完成させたのです。この結果、合計すれば1,000町歩を超える田が潤い、当時赤字財政で困窮していた紀州藩の財政改革成功の一つとなったとも言われています。そしてこの功績を評価されたこともあり、藩主吉宗が300年前の1716年徳川第8代将軍に選ばれたのです。
かれの農業土木技術は、長い水路を的確な勾配管理で実施する水盛り器の開発や、水路が横断する際の水路橋(現在の「龍之渡井」)やサイホン工法など多数ありますが、とりわけ江戸時代における河川工法の一つ、紀州流の祖とされている点も著名です。
ただ、私は、それ以上に、彼が百姓の立場から、無用の潅漑事業を回避し、地域に必要な費用負担しても耕作を継続して有益となる事業を設計するという、いわば費用効果分析を的確に行いながら、実現させた点をとくに評価したいと思うのです。それは現行の土地改良法の事業計画の要件にも生かされているように思うのです。
たとえば、事業計画の要件について省令の概要は、次の通りです。
(1) 農業総生産の増大などその事業を必要とすること(必要性)。
(2) 当技術的に可能であること(技術的可能性)。
(3) すべての効用がそのすべての費用をつぐなうこと(経済性)
(4) 農業経営の状況からみて負担能力の限度をこえない(費用負担の妥当性)
もう一つ、彼の生き方は、当時さまざまの農書が盛んに出版されていましたが、それとは異なる百姓の生き方というものを、詳細かつ具体的な百姓の一年を通した作業内容を書きとどめながら、彼が敬愛していたと思われる兼行法師の徒然草の一段のごとく、毀誉褒貶に縛られず、一途に働く(ハタ楽)ことこそ、自らの「安楽」になるという心持ちを吐露している。
維新前後に来日した多様な異人による見聞録が日本、日本人を描いてることは人口に膾炙しています。その中に、人々は親切で優しく笑顔にあふれ日常に満足していて、このような幸福な人々を見たことがないと語る人が少なくないのです。それは明治の近代化以前の日本人が慎ましくも豊かで人に対して心優しい精神を培っていたからではないかと愚考したりしています。
話しは変わりますが、今年8月、その才蔵の素晴らしさを取り上げようと、「大畑才蔵ネットワーク和歌山」という団体を立ち上げました。そして第一回のイベントとして歴史ウォークを行います。関心のある方は是非気軽に参加ください。