たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

大畑才蔵考その9 <応其上人とため池 周到な工事、改修重ね現在に>を読みながら

2017-09-05 | 大畑才蔵

170905 大畑才蔵考その9 <応其上人とため池 周到な工事、改修重ね現在に>を読みながら

 

和歌山、紀ノ川沿いはため池が多いですね。といっても西日本では見慣れた風景かもしれません。でも近づいて見ないとそのよさがわからないでしょう。池は危ないから近づくなという看板は多くの子どもを遠ざけてしまったように思います。

 

私が当地にやってきた頃、仕事もなく体の具合も悪かったので、足の具合がいいときは毎日のように山里を歩いていました。すると最寄りには平谷池(へいだにいけ)、風呂谷池(ふろだにいけ)、宮谷池(みやだにいけ)などが連続してあって、とてもすばらしい景観なのです。カルガモの親子が霧深い中で泳いでいたりすると、もうそれは別世界のような感覚になります。

 

あるときはアオサギが池の中に入ってじっと何かを見つめています。餌を捕獲しようと狩人のたたずまいです。これも見事な緊張と周辺の池畔景観がいい具合に調和しています。ため池は生態系の宝庫かもしれません。生態系ネットワークはため池の存在によって網目状に連なっているようにも見えます。ウェットランドはわが国では多様に存在しワイズユースが微妙なバランスで活かされているように思うのです。

 

さて上記のため池も含め、当地の主立ったため池は紀ノ川南岸も、北岸もたとえば引ノ池に岩倉池など多くが応其上人の手によるとも言われています。

 

応其上人といってもほとんどの人は知らないと思います(それは失礼でしょうか)。という私も当地にやってくるまで名前も知りませんでした。

 

毎日和歌山版は<風景を歩く 応其上人とため池 周到な工事、改修重ね現在に>の中で、その一端を紹介しています。詩人・宮下氏は、応其上人がため池築堤などの土木技術や連歌、交渉力などに秀でたとしつつ、なぜか橋本(村・町)の名前の由来となった、架橋については触れていません。さすがの応其上人も紀ノ川を架橋したものの、数ヶ月でその橋は流されたと言います。でもそこから「橋本」という名前がつけられたとか。

 

岩倉池を新設したのが応其上人のように書かれています。私はこの池の由来を調べたことがないのでそうかもしれないと思いつつ、引ノ池や平谷池は修繕したとも言われています。空海もそうですが、壊れかかった池を修繕や改築した可能性が高いのかなと思ったりしています。

 

それでもその技術力に対する評価は下がるものではないと思うのです。

 

交渉力においては、高野山17万石について、粉川や根来、雑賀のように全滅とならず、たしか3万石くらい残すことを秀吉に認めさせた、まさに高野山中興の祖というべき人ではないかと思うのです。それが38歳で出家して、わずか10数年後に高野山を代表して秀吉と交渉したのですから、どれだけの才があったのかと思います。その後も数々の戦場で交渉を行い、島津藩との和議も彼が担ったと言われています。ただ、文献を探しても、よくわかりませんので、ここはまだ検討の余地があるのかもしれません。

 

ため池築造も紀ノ川上流、つまり現在の橋本市内では相当数の実績がありますが、かれの土木技術力からすればほんの序の口で、高野山を含め多数の寺社仏閣の建築を手がけたとされています。だいたい、高野山奥の院で、空海さんが祀られているのは当然ですが、僧侶では応其上人以外では覚鑁上人とかほんの数人だけだったと思います。

 

現在の金剛峯寺の前身、興山寺と青厳寺を開基したのも彼ですね。

 

ここまでが前置きで、久しぶりに長くなりました。彼の土木技術は、私が勉強している才蔵にしっかりと受け継がれているような気がしているのです。

 

宮下氏は<岩倉池の築造は周到な土木工事である。調査資料によると、池水による堤体の浸食を防ぐために赤土を駒踏(こまふみ)(計画高さ)まで、30センチごとに突き固めた。もちろん、大雨によって水位が上昇した場合の打樋(うてび)(洪水吐)のために堤体の一部を凹型に低くしている。肝心の取水施設は尺八樋(しゃくはちひ)(斜樋管)と連結し、堤体の底を這(は)わせて千貫樋(せんがんひ)(底樋管)が設けられた。

 尺八樋とは三穴の木の管のことで、堤体の勾配に沿わせて水中に取り付け、必要に応じて上の穴から順に木栓を抜き、池水を千貫樋に落として堤外へ放流した。厳寒の池普請の頃になると、千貫樋を利用して残水の勢いでヘドロを堤外に排出した。>と述べ、その技術が現在も使われていることを指摘しています。

 

ここに出てくる「駒踏(こまふみ)」「打樋(うてび)」「尺八樋(しゃくはちひ)」「千貫樋」(才蔵は単に樋と呼称しています)はいずれも才蔵の「地方の聞書」の中に、より詳細に図面を用いながら、多くの用語を取り上げて解説されています。才蔵のすごさの一つは、こういった基本技術をだれでもが呼び名や機能を理解できるように文章化していることでしょうか(本来的には子孫のためだったのでしょうけど)。

 

私が以前、このブログで引用した「ため池構造図」(才蔵の原画を手直ししたもの)に描かれたため池の構造は、現在の構造と基本的には同じです。私自身、「千貫」という呼び名が用水路の当番のとき、なんどもそれを開けたり閉めたりして、用水の出入を調節したり、その修繕作業に取り組んだりで、耳慣れつつ、いったいどんな漢字でどんな意味だろうと思いながら作業していたのを思い出します。

 

応其上人の技術は書かれたものとしては残っていないと思います。見たことがないので。応其上人が活躍した16世紀末から約一世紀たった18世紀初頭、才蔵は藤崎井や小田井などの大河川・紀ノ川から取り入れた大灌漑用水事業を成し遂げていますが、同時に、海南市にある亀池(上司の井沢弥惣兵衛が築造ともいわれています)を含め多数のため池の修繕・築造に力を注いだことは間違いないと思うのです。そうでなければ、「地方の聞書」であれほど詳細にため池の機能や築造について解説することができないと思うのです。

 

上記の尺八樋は、現在鋼鉄など材質は変わっていますが、基本的な機能は同じです。画像にある「すずめ」も現在も同じ呼称で使われています。そして冬期にはすずめを開けて、千貫樋から堆積した汚泥をはき出させます。昔は村人全部が集まって、空になったため池に残った鯉や鮒などをとってお祭りになったのでしょう。

 

才蔵は、応其上人の高度な土木技術をなんらかの形で引き継いだのではないかと、いまは想像します。才蔵が庄屋として農作業や村の行政を担ったのは、さっきあげた紀ノ川南岸のため池群も目と鼻の先だったのです。日常的に応其上人の成果を体験していたはずです。

 

今日は一時間半にもなってしまいました。この辺でおしまい。