たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

高野山と空海 <NHK ブラタモリ ・・高野山は なぜ“山上の仏教都市”に?>に期待しつつ

2017-09-23 | 空海と高野山

170923 高野山と空海 <NHK ブラタモリ ・・高野山は なぜ“山上の仏教都市”に?>に期待しつつ

 

NHK番組ブラタモリが高野山を3週連続で取り上げています。これまで<高野山と空海~高野山は空海テーマパーク!?~>で2回連続放映され、今日は<高野山の町~高野山はなぜ“山上の仏教都市”に?~>ということです。

 

空海をどう取り上げるかは一筋縄ではいかないと思いますし、さすがのタモリさんも前2回は地質的な側面が後退し、宗教性と観光性が高野山側からの要請もあったのか、中心だったように思います。

 

今日のテーマは空海の思いに少し近づくのかなと期待しつつ、空海に近づくための本質とは少し離れるのではないかと危惧しています。高野山金剛峯寺主導の展開になりそうな雰囲気ですね。それでも空海の思いの一端が見えるかもしれません。

 

それはなぜ空海が平安時代の黎明期、嵯峨天皇や淳和天皇などに慕われ、都での国家鎮護を要請されていたのに、それを振り切り、あえてだれも知らない高野山に真言密教の本拠を作ろうとしたのかという疑問ですね。入唐していたとき、日本での新天地を求め投じた三鈷杵(さんこしょ)が高野山の松にあったからというのは、空海伝説らしくて、おもしろいのですが、それを根拠にすることは無理がありそうです。

 

ブラタモリで取り上げられた町石道についても、はたして空海が平安末期に上皇たちがこぞって参拝するようなことを想定していたとは私には思えないのです。空海の母親が慈尊院に滞在し、そこに九度も空海が訪ねていったという、九度山の由来伝説にかかることも、私にはにわかに信じられないのです。

 

その理由の一端を少し述べておきます。慈尊院が現在地に移ったのは室町期の紀ノ川(国土交通省は紀の川と表記)大洪水以降と言われています。それ以前は高野山の物資等を管理する政所として、紀ノ川の中州にあったとされています。現在の紀ノ川はかなり北方に流れていたようで、中州のさらに北側を西流していたとされています。

 

これは何を意味するかというと、中州ですから洪水があれば浸水し、流される危険があるわけで、そんな場所に母親を滞在させていたとは思えないのです。政所ができたのは空海が亡くなって半世紀以上後ですから、母親が仮に空海に会いたいと思って滞在していたとしても、存在しない場所では滞在できませんね。

 

それよりも何より、空海が高野山に移って滞在するようになったのは、816年に高野山開設の勅許を得て、弟子たちが何年かかけて簡単な伽藍を建設した後ですね。東寺や東大寺の別当など要職を担っていた空海が都を離れることはほとんどできなかったのではないかと思うのです。

 

ようやく長期に滞在することができるようになったのは、伽藍がある程度できあがった830年に近い頃ではないかと思うのです。そのとき空海自身の体調も悪化していて、入山後まもなく食事制限をしていたのではないかとも推測します。仮に空海が高野山に滞在するようになった当初、元気であったとしても、果たして母親が滞在する場所に九度といわなくても頻繁に降りていって面会していたかとなると疑問を感じています。弟子たちはじめ、僧侶や大工は、空海の自費で工事を行っていたのですから、食べるものもあまりない、そういう中、空海一人、母に会うために下山するなんてことは、空海という人の人柄から考えてありえないのではと思うのです。いや、母親も、わざわざなぜ高野山に訪ねていくのでしょう。その死を意識していたからでしょうか。都に訪ねたという話がないように思いますが、これも不自然です。

 

そんなわけで、町石道も空海が高野山を登ったり、降りたりした道というのは、私としてはまだ釈然としないのです。空海は健脚です。たしかに町石道の一部には一般の人にとってはきつい箇所もありますが、彼がその程度の道をなんのために選んだのでしょう。ありえないと思っています。むろん空海が一般の参拝客を当時想定していたというのであれば別ですが、開山にあたって、そのようなことは考えにくいと思っています。

 

この話は、もう少し地形的な議論もしたいと思いつつ今日の毎日記事<空海若き日の書跡公開 国宝の2巻 高野山霊宝館で来月9日まで /和歌山>やブラタモリで紹介された「聾瞽指帰(ろうこしいき)」について、話を展開しようかと思います。

 

「聾瞽指帰」は、いろいろな解説書なり、空海を描いた歴史小説などで、多少理解しているつもりです。空海らしいというか、儒教、道教と仏教を架空人物を通して平易に比較論難しています。その内容はともかく、この毎日記事で関心を抱いたのは、その書跡は上質の麻紙に残されているということです。当時24歳、家族の大いなる期待を裏切るように、前途有望の大学を無断で退学し、四国をはじめ各地の修行場所で荒行を重ねていたといわれており、収入も家族の支援もない空海がよほどでないと手にできない上質の麻に日本最初の小説とも言うべき文書を書くことができたのでしょうか。その収入源は?

 

そこでよく出るのが水銀伝説ですね。空海が高野山を選んだのは、その近くに水銀がとれたからではという考え方です。たしかに高野山から多くの川が流れていますが、その一つ、丹生川が九度山を通って紀ノ川に注いでいます。丹生は水銀が出る場所を示すとも言われ、三重県多気郡にあった丹生水銀鉱山は縄文期からあったとされ、聖武天皇が東大寺大仏を作るときこの水銀も多く利用されたとされています。ただ、高野山付近での水銀発見は確認されていないそうですので、やはり伝説かもしれません。いや、入唐の費用、密教経典など膨大な数の唐から持ち帰った品々は、隠れた水銀の収入によるしか考えられないといった見解もなお捨てられない気持ちはあります。

 

それはともかく、空海が高野山を山上の宗教都市として、領域を確保した、それは勅許でたしか23万石の領域が確保されていたと、応其上人が根来寺、粉河寺という宗教都市を全滅させた秀吉に認めさせ、高野山を存続させた根拠ということのようですので、空海にはそういう展望を切り開くような構想があったのかもしれません。

 

それにしても、空海入定のあと、聖、行人、学侶が三者対立競合しながら、発展させたことは間違いないでしょうし、その複雑な関係が少なくとも明治維新まで続いていたのでしょうか。ただ、1692年の寺社奉行による高野裁断で、行人の多くを追放し、そして寺も1000以上を破壊したことで、高野山はようやくある種の静穏を得たのかもしれません。

 

留まることがない、勝手な推論でした。今夜のブラタモリを期待してこの辺でおしまい。