181005 ペットは物か所有権構成の限界 <裁判官がツイートして懲戒?波紋>などを読みながら
はじめはスルーしようと思ったこの記事、なかなか興味深くて少し押し入ってしまいました。
9月4日付け福井新聞記事<裁判官がツイートして懲戒?波紋>では、<ツイッターに不適切な投稿をし当事者の感情を傷つけたなどとして、東京高裁が懲戒を申し立てた岡口基一裁判官(52)の分限裁判が波紋を呼んでいる。>と、時折、ウェブ記事をにぎわす珍しい裁判官・基一氏の話題が取り上げられていました。
わが国の裁判官は、裁判所においてその判断を示すのみで、他の裁判はもちろん世間のことについても語ることを聞いたことがありません。最近はどうか知りませんが、プライベートもほとんど取り上げられることもなく、ベールに包まれている印象です。
私の同期も、昔は一緒にテニスをしたり、囲碁をしたり(いや指導碁を打ってもらっていただけですが)していましたが、任官後はなんどか飲食を一緒にした程度で、どうしているのかよく分かりません。裁判官もプライベートは普通の人ですが、裁判所外では行動を慎んでいるように見えます。
そんな中、岡口氏は平気で?ネット時代を堪能して、裁判官の人間性の一端を持続的にカミングアウトしているようです(実はネットで取り上げられたときちらっと見る程度で、よく分かっていません)。岡口氏のように、さらに若い世代の裁判官がネットだけでなく、私生活も市民の中に入っていってもらいたいと思う次第です。
ずいぶん本題と離れてしまっていますが、もう少しおつきあいください。
さて問題になったツイートについて、法曹界では<全国の弁護士や憲法学者らから「単に裁判例を紹介したに過ぎず、表現の自由の侵害だ。司法への信頼を損なう」「裁判官にもつぶやく自由はある」などと批判が続出。福井の弁護士も全国の弁護士約600人の賛同を集め10月3日、最高裁に声明文を提出した。最高裁は近く決定を出す。>と大勢の弁護士を巻き込んで、大きな山場にさしかかっているようです。
たしかに裁判官の表現の自由がいま問題にされているわけですから、より大きく公開で議論されてしかるべきと思うのです。
で問題の投稿の内容はというと、<今年5月のツイート。拾われた犬の所有権が、元の飼い主と拾った人のどちらにあるかが争われた民事訴訟について、取り上げたインターネット記事のリンクを貼り付けた上で、「公園に放置されていた犬を保護し育てていたら、3か月くらい経って、もとの飼い主が名乗り出てきて、『返して下さい』」「え?あなた?この犬を捨てたんでしょ?3か月も放置しておきながら‥」「裁判の結果は‥」と本名で勤務時間外に投稿した。>ものです。
これに対して<岡口氏が所属する東京高裁によると投稿後、元の飼い主から抗議があった。高裁は、当事者(元の飼い主)の感情を傷つけ、「裁判官の品位を辱める行為」に当たるとして7月、最高裁に懲戒を申し立てた。>ということです。
その後の経過は<最高裁は9月、非公開の分限裁判を開き、岡口氏の意見を聴く尋問を実施。岡口氏は記者会見し「法治国家としてあり得ない。怖くて表現行為ができなくなる」と訴えた。>
で、司法の人権侵害と訴えて声明文の発起人となった弁護士は<「ツイートは裁判例の概要を紹介したに過ぎない」と主張。>とのことです。
ま、この記事で紹介されているツイートを読む限り、なぜ高裁が申立、最高裁が分限裁判まで開いたのか、理解に苦しみますね。上記発起人の主張の通りだとすれば、不可解です。
それで、気になりまして、当該裁判例をD1-Law.com判例体系で調べてみました。ここからが本論です。裁判官の表現の自由も踏まえて整理できるといいのですが・・・
あまり関係ないですが、当該裁判例はおそらくちょうど1年前の10月5日東京地裁判決だと思われます。なぜ岡口氏のツイートが半年以上経過した今年5月になされたのでしょう。そのころ彼が引用した記事がどういう経緯で、またどういう内容で掲載されたのかはツイートそのもの全文が福井新聞記事にはアップされていませんので、たしかなことは分かりません。
岡口氏は東京高裁判事ですね、上記のデータベースでは控訴か確定かが明確にされていないので、もしかして東京高裁に係属している事案だとすれば、むろん自分が担当する事件ではないでしょうが、このようなコメントをすることはちょっと疑問を感じます。やはり確定している事案であると思うのです。しかしながら、これは一審で確定すべき事案ではないと、判決文を読みながら思ってしまったのです。
岡口氏は、上記の通り、<「公園に放置されていた犬を保護し育てていた>人に対し、犬の引渡を求めた所有者について、<この犬を捨てたんでしょ?3か月も放置しておきながら‥>とツイートしていますが、その指摘する事実が訴訟の争点で、それを被告側の主張に立って指摘しているのです。そうなると原告側が東京高裁に懲戒申立をする気持ちも半分くらいは「青い」、いや撤回、理解できます。
ざっと一審判決を読んだのですが、犬は大型猟犬(普段おとなしいので、わが国ではペットとして人気があると思います)でリードもついているので、「放置されていた」と直ちにはいえないものの、客観的にはそういえる状態と評価できます。リードを公園内の柵に2度にわたって結びつけ、一度はまもなく管理者に保護されるなどして、本人の下にもどったものの、再び同じことをして、被告夫婦が発見したときは雨に濡れ泥まみれで衰弱している状態であったというのです。しかもこの犬は高齢(同犬の寿命が10~12歳と言われる中、10歳でした)でした。
私も以前、近所の人が同種犬を飼っていて、毎日朝夕散歩に連れて歩いているのをよく見かけていましたが、それぞれ超高齢でご本人が病に倒れた後、結局犬の方が先に亡くなったようです。その方は散歩がその犬には不可欠(猟犬ですからね)といって、頑張っておられたのですが。
高齢で老衰していく犬の世話はとても大変であることは、そのほかでも以前、隣家の高齢者からも聞かされました。自分の医療費より高額なるけど、最期まで世話したいと言うのですね。そういう場合いずれも高齢の配偶者がいらっしゃいますが、ご本人が自ら世話をしています。配偶者は見守っていますね。少なくともペットとして飼う以上、夫婦一体で(一方は具体的な世話をしなくても)最期まで世話するのが基本的なマナーではないでしょうか。
ところで、一審判決は、ここでは犬の所有権の問題として考察し、交際(同棲といってもよいか?)中の一方がやったことと、犬の所有者である他方の行動とは異なると、峻別しています。この判断読んで、えっと思うのは私だけではないと思います。おそらく岡口氏もそう考えたのかもしれません。所有者は、犬のことを心配しつつ、放置した交際者との関係継続を大事にすることを優先し、結局、その関係解消後に、つまりは3ヶ月近く放置後、ようやく遺失届を提出し、引き取りを求めたというのです。
たしかに犬を2回も放置したのは同棲中の相手です。原告本人は犬を飼い続けることを希望したのですが、相手が認めず、深夜の公園、雨が降り泥まみれの中、リードで拘束して放置したのです。
一審判決は、相手の行為をそのように認めつつ、所有者である原告の行為ではなく、原告はその犬の放置された状態を知らなかったと済ませています。だから、所有権の放棄でも、また、動物愛護法の趣旨に反する虐待でもなく、引渡請求は権利乱用に当たらないというのです。
たしかに犬と人間は違います。これが犬でなく赤ちゃんや幼子だったら、どうでしょう。一審判決は、同棲中の相手がやったことだから、所有者の原告は関係ないですね、なんて寛容な判断にはならなかったでしょう。同棲中の一方が別れたくないため、他方が幼子、場合によっては介護中の高齢者を、虐待するのを見て見ぬふりをする場合もあります。
原告は、虐待を自ら行っていなくても、リスク予測は十分できたはずです。この犬は、人間とともに仕事をするように作られた優れた猟犬です。また、その性格から、「戸外に繋ぐことや独居させること・餌及び水やりに関して無頓着になることを嫌う。」とされていて、公園の柵に拘束して放置するなんてことは絶対にやってはいけないことです。
原告は見ていなかったのでしょうけど、リードを外すといったことはむろん想定していませんし、誰かがすぐに発見してくれ、保護してくれるという甘い観測だけです。それは幼子を誰もいない深夜の公園に放置することと、ペット愛好者であれば同じくらいの意味をもちませんかね。しかもこの大型猟犬は高齢で老衰が悪化してもおかしくないのですから。
原告代理人は、猫を含むペットの法的紛争にたけた方のようです。その法的戦略が奏功したのでしょうかね。でも猫と犬は違いますね。いや、そんな問題ではないですね。ペットと人のあり方、人と生命のあり方が問われていると思います。
ペットということで、法的に動産という物と捉え、物の所有権や所有者の権利を議論することが妥当性をもつのか、私はこの裁判例を読んで、ふと思ってしまいました。
私は、つい、ロデリック・F・ナッシュ著の『自然の権利 環境倫理の文明史』を思い出しました。王政の支配抑圧から逃れるため、人間の自然の権利が提唱され、人間同士の支配・差別からの克服という点で、奴隷制や女性解放、そして動物への支配からその解放という、動物の権利、そして人間の自然支配からの解放という、環境倫理に展開するような歴史を見事に語っています。
その意味で、岡口氏のツイートは、少し乱暴だけど、本質を突くコメントではないかと思うのです。たしかに表現の自由の問題ですが、それに劣らず、ペットと人間の関係を問う問題ではないかと思うのです。それは所有権や動物の権利といった視点を見直すことを問いかけているようにも思われます(ま、そこまでの議論ではないというのが一般的なとらえ方かもしれません)。
書いている途中で、交渉中の相手が来訪したため、ブログ書きを中断して、やっかいな和解の話し合いを行いなんとか見通しがでる状態で本日は終わりました。でも、ちょっと何を書こうとしていたのかあいまいになってきましたが、なんとか再開してつなげることができたように思えます。だいたい論旨は尽きたようですので、このへんでこのテーマはおしまいとします。ナッシュの議論はいつか取り上げたいですが、いつになるやら・・・・
別のテーマを書こうと思っていましたが、疲れましたので今日はこれでおしまい。また。明日