エッセイアーカイブの4本目は、新潟東高校文芸部誌「簓」の第5集に書いた顧問エッセイです。おヒマな折にでもお読みください。
居候とともに「サロン文芸部」
以前書いたとおり、高校時代は、個性的な先輩方の下で文章修業(というよりは文芸部修業)を続けてきたわたしも、当然のことながら月日が経てば進級していったわけで(なんであんなひどい成績で進級が認められたのか、全くもって不思議なのですが)、気がついたら三年生、つまり、わたし自身が「先輩」と呼ばれる立場になっていました。人間的には全く成長しなくても、時間というのはそんなことに全く無関係に過ぎ去っていくものだと、当時を振り返ると感慨深いものがあります。
わたしが通っていたのは、昭和大橋のたもと近くにある県立M高校です。わたしの入学当初のM高は、一九三九年(昭和十四年)に創立した当時のままの完全木造校舎だったのですが、床がきしむ、雨漏りがする、すきま風が入り込む、汲み取り式の女子トイレからアヤシイ手が伸びてくる、等々老朽化が著しく(そのせいか、女子の人気はまるでなく、ほとんど男子校状態でした)、古い建物を順次壊して新しい鉄筋の校舎に改築するという作業が、わたしたちの入学の半年後から進められていました(すると、翌年から女子の入学者数が増えていきました。完全新校舎となった現在は、女子が過半数を占めるまでになりました。うらやましいじゃないか)。文芸部室も、旧校舎の階段下の小部屋だったのが、そこの建物も取り壊され、あちこち流浪を重ねることとなり、わたしが三年になった頃には、最後に残った旧校舎の元教室をを半分に仕切った部屋を、部室としてあてがわれました。ちなみに、もう半分は地学部室だったと思います。もちろん、近い将来取り壊される運命の、ほんの一時期の仮住まいではあるのですが、これまでの部室から比べれば、その広いことといったら段違いです。そんなわけで、高校生活最後の一年を、わたしはその部室で過ごすこととなったのです。
◇ ◇
最上級生となったわたしは、広くなった部室に大喜びです。家からギターを持ち込み歌を歌ったり(いわゆる七十年代フォーク全盛の時代でした)、先輩方から受け継いだ〝伝統〟のトランプゲーム「大貧民」に興じたりしていました。新入生も三人ほど入部し(文芸部で三人も部員が入部するのはけっこう大勢な感じなのです)、部室に行くのが楽しくてしかたありません。教室では、ほぼすべての授業で〝睡眠学習〟をしている完全な〝落ちこぼれ〟のわたしでしたが、そんなことは全く気になりません。わたしは毎日、文芸部室に行くために学校へ通っていたのです。
◇ ◇
文芸部の(というより文芸部室の)楽しさというのは、もちろん部活動そのものの楽しさも当然あるわけですが、その当時の文芸部は、部員以外の生徒の〝たまり場〟になっていて、そのメンバーと世間話をしたり遊んだりするのが実に楽しいことなのでした。部室の二ブロック隣の部屋は生徒会室で、生徒会長をはじめとする生徒会幹部がしょっちゅう出入りしていました。それらのメンバーがまた新しいメンバーを連れてくる。そんなふうにしているうちに、人脈がどんどん広がっていきました。部員名簿とは別に、「居候名簿」も作っていたのですが、人数は圧倒的に居候のほうが多いのです。特に何をするというわけでもないのですが、とにかく変な連中が集まってわいわいやっている、そのこと自体が楽しいことでした。わたしもそんな関係で、生徒会役員選挙での応援演説や立会演説会でのサクラ質問などをやったりしました。
そんな中、わたしの元同級生のKくんが「面白いやつがいる」といって連れてきたのが、ヤマガくんでした。ヤマガくんは山岳部員でしたが、春の大会が終わり引退し、無聊を託っていたところをKくんに引っ張られて文芸部室にやってきたというわけです。
このヤマガくんが、確かに実に面白い人物なのです。絵を描かせればプロの漫画家ハダシの腕前、話題が豊富で聞き手を飽きさせず、なんといってもすごかったのが映画の知識(それも「作り方」のほう)です。「将来は映画監督になる」などということも言っていたような気がします。どうしたわけか、文芸部室(「部」ではない)を気に入ってくれたヤマガくんは、それこそ毎日毎日通ってくるようになりました。出席率は部員よりも高く、ある時など、大風邪を引いて学校を欠席したにも関わらず、なぜか放課後、文芸部室には顔を出す、などということも実際ありました(あほかいな)。
そのヤマガくん、大阪の芸術大学に進学し、ユニークな仲間たちと出会い、その仲間たちと、のちに「エヴァンゲリオン」などで有名になる「ガイナックス」という会社を設立し、映画「王立宇宙軍オネアミスの翼」など、多くの傑作アニメ作品を製作し、やがて社長になったりもするのですが、それはまた後のお話。
それにしても、あの当時の仲間と、今も親しい付き合いが続いているのは、「高校時代」という貴重な一時期に、あの部室があったおかげです。単なる〝たまり場〟ではない、もっと大切な目に見えないものが、あそこにはあったのだと、今は思っているのです。
新潟東高等学校文芸部部誌「簓」第5集(2007年8月27日発行)より