エッセイアーカイブの8本目は、新潟東高校文芸同好会誌「簓」の第6集に書いた顧問エッセイです。前回のエッセイ⑦の内容を、別の方向から書いたものです。おヒマな折にでもお読みください。
遅れてやってきて「活動家」になり損ない
わたしが東京のとある日本一でかい大学(仮にN大学としておきます)の文理学部国文学科にもぐり込んだのは、一九八二年のことでした。高校卒業後、二年の「労人」生活(「浪人」ではないよ。念のため)を経ての、念願の大学生活の始まりです。学費・生活費・家賃といった大学生活で必要な金は、月額三万九千円の無利子貸与奨学金のほかはすべて自分で稼がなければならない、といった不安なスタートではあったのですが、それでもわたしは高揚感で胸がいっぱいでした。あこがれのアノ運動に参加できるのではないか、という期待があったからです。
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貧しい家庭で育ったわたしは、当時、社会的な不公正という問題に強い感心を持つようになっていました。父親は腕の立つ左官職人でしたが、当時は「構造不況」の時代であまり仕事がなく、母親がパートで家計を支えていました。その父親が、当時ばりばりの革新政党(今はひょっとして死語かもしれませんねえ)の支持者で、わたしはその影響を受けていたのです。まだ未成年だった勤め人のころから、今はなき「朝日ジャーナル」などの社会派雑誌を、よく分かりもしないのに購読してもいました。
そのわたしが、苦しい家計も省みず大学進学を希望したのは、早い話が「学生運動」というものに強い憧れを抱いていたからなのでした。一握りの大金持ちや大資本家が富と権力を独占しているために、多数の人民が搾取され、苦しい生活を強いられている。それは許せない、公正な社会を実現するために、資本主義権力を打倒しなければならない、などと、 けっこう本気で考えていたのです。
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で、N大学文理学部に入学してみて、わたしは正直拍子抜けをしました。N大文理学部といえば、七十年安保当時の全共闘運動(と言っても今の高校生は絶対分からないだろうなあ)の拠点大学として知られていました。その当時の闘い(「戦い」ではないのですよこれが)の経過を描いたベストセラー『反逆のバリケード』の舞台となった大学なのです。
ところが、キャンパスはいたって平穏。いかにも今どきの、ファッショナブルな学生さんたちが、さして広くもないキャンパスを闊歩しているばかりで、ヘルメットにタオル覆面、ゲバ棒を持ったいわゆる「活動家」など、どこにもいません。いや、正確には、ノンセクトラジカル(といってもやっぱり分かんないだろうなあ)の「Gヘルグループ」というのがいるにはいたのですが、その人数といったら、多く見積もってもせいぜい二十人くらい(文理学部生全体の学生数は、たぶん七~八千人)。それが春のキャンパスでジグザグデモをしている姿は、それはそれはしょぼ~いものでした。なんというか、絶滅危惧種の動物というか、滅びゆく伝統芸能の世界というか。
考えてみれば、いや、考えなくても分かりそうなものですが、学生運動が盛り上がっていたのは、一九七〇年前後までのこと。それから十年以上も経過しているのですから、そんなもの、とっくの昔に収束しているに決まっています。そういえば、わたしの通っていた高校も、「三無主義を通り越して五無主義だ」などと先生方から批判されていたものです(むしろ先生方のほうに「活動家」みたいな人がいたような気もします)
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そんなわけで、「学生運動」に参加する夢はあっさりついえ去り、それでも社会派な音楽サークルを見つけ、そこで音楽や音楽以外の活動をするようになったわたしですが、今から考えると、「暴力による革命」を目指す運動というのは、どうもわたしの体質に合っていなかったようで、結果としてはよかったと思っています。意見の違う相手を暴力でねじ伏せて言うことを聞かせるというのは、やはり絶対に間違っていると思うからです。上記のGヘルグループの首領さんには、「お前らのような日和見改革派は(これも意味がよく分からん)殲滅してやる」と面と向かって言われましたが、そういうことを言う人の話など、きっと誰も聞いてはくれないでしょう。
今から考えれば、誇大かつ無謀な夢を抱いていたものだと苦笑するばかりな若いころですが、それでも、社会的に「弱い」立場に立っている人たちがより生きやすい社会になるといいなあ、と、相変わらず力不足な今でも、やっぱり思ったりするのです。
【新潟東高校文芸部誌「簓」第六集(2008年3月発行)より】