エッセイアーカイブの6本目は、豊栄高校文芸同好会誌「凪」の第4集に書いた顧問エッセイです。おヒマな折にでもお読みください。
わたしが大学に入るまで
高校生の頃はまったく勉強しなかったわたしでしたが、それでも「できれば国立大学に進学したい」とずうずうしくも思っていました。同級生のほとんどが大学進学志望でしたし、大学に行けば何かいいことがある、とぼんやり考えていたような気もします。
というわけで、高校卒業の直前には共通一次試験(今で言うところのセンター試験ですね)も受験し、どこかわたしでも潜り込める国公立大学はないか、と悪あがきをしていました。しかし、受験のための知識などほとんど皆目まったくさっぱり身についていないわけですから、その結果はまさに惨憺(さんたん)たるものでした。国語、数学、英語は二〇〇点満点、社会科(現在の地歴・公民科です)・理科は二科目で二〇〇点ずつの計一〇〇〇点満点だったのですが、その結果はそれはそれは無残なものでした。特に数学はヒドイ結果でした。なにしろ、わかって答えた問題が一問もないというありさまで、自己採点で何度計算し直しても三〇点を越えないのです。二九点(笑)。
ここまでヒドイと、落胆するというよりむしろ笑っちゃうという感じで、翌日学校へ行くとわたしは、クラスの友人に「数学は二九点だったんだぜ。いくらなんでも、これより低い点のやつはいないだろう」と自慢しました(バカを自慢してどうする、と思われるでしょうが、当時のわたしの仲間たちは、そういう連中ばかりだったのだ、と思ってください)。すると、同級生のKくんが自分の顔の前で「チッチッチッ」と昭和三十年代の和製アクション映画の悪役のように指を振って言いました。「甘いなオブナイ。オレは二八点だったぜ」。わたしは愕然として答えました。「負けたよ、Kくん。世の中、下には下がいるんだなあ」(もちろんKくんをバカにしているわけではなくて、本気で負けたと思っているのですよ)。今から考えると、こんなザマで国立大学に行きたいなどと、よく言えたものだと思います。だいたい、これでは共通一次試験を受ける意味もない感じですし。
◇ ◇
こんなわたしが無謀にも国立大学を目指した理由は、とにかく家にカネがない、ということでした。当時はバブル景気が始まる七~八年前で、バブルどころか「構造不況」の真っ最中でした。父は左官職人なのですが、その頃はさっぱり仕事がなく、「半失業」の状態に近かったと思います。母もパートタイマーとして働いていましたが、二人合わせても収入は微々たるもので、なかなか生活は大変でした。そんな状態で、わたしが大学に行くとなれば、その選択肢は学費の安い国公立大学しかなかったのです。
まあ、結果は推して知るべし。二次試験を受けることすらできず、わたしは就職の道を選びました。それでも、「仕方ないか。貧乏なんだし」と自分を納得させ、一八歳のわたしは勤めに出ることとなりました。
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勤め人の生活は、わたしにとってはすべてが新しく、すべてが初めての経験でした。といえば聞こえはいいのですが、早い話が、これまでの経験はまったく役に立たない、わけのわからないことの連続でした。どうしていいかわからないために机の前でボーッとしていると「自分で仕事を見つけなきゃダメじゃないか」と叱られ、それではと自分なりに仕事らしきものを見つけてやってみると「そんなことやってるヒマがあったらこっちの仕事をやらなきゃダメだろう」と言われ、結局どうにもならないまま時間の経つのを待つ、という毎日でした。
なぜ自分はこんなに仕事ができないのだろう、と考える日々が続き、やがてふと気づきました。わたしは、勉強の仕方をまったくわかっていなかった、ということに。
勉強というのは、必ずしも学校だけでするものではありません。社会で生きていくためには、あらゆる局面で勉強が必要になります。その仕事にはその仕事なりの、他の仕事には他の仕事なりの勉強が要るのです。もちろん、勉強にはそのやり方というものがあるわけですが、わたしにはそれがまったく身についていなかったのです。「こりゃイカン」。その時初めて、わたしは学校で勉強することの意味に気づいたのでした。
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そのときから、わたしは改めて受験勉強を始めました。勤め先には申し訳ないのですが、いわゆる「仮面浪人」となりました。自分の能力を考えて、五教科七科目が必要な国公立はハナから諦め、私立大学を受験しようと決めました(私大の学費は国公立に比べてかなり高いのですが、それでも文系の学部はそれほど高くはないところが多かったのです)。さらに、苦手の英語も捨てて、国語と政治経済の二科目に絞って勉強しました。当時の私立大学の受験科目は三科目のところがほとんどで、合格点は三〇〇点満点で一七〇~二〇〇点くらいのところが多かったので、「英語が〇点でも国語と政経で満点近く取れば合格だ」と判断したわけです。今から思えば相当無茶ですが、そのときのわたしの実力からすれば、そのやり方に賭けるしかなかったのもまた確かでした。
そして二年後、わたしはようやく大学に合格し、仕事を辞めました。安定が売りの職場でしたから、当然、親からはさんざん叱られ「学費は一銭も出さん」(「出さん」のではなく「出せん」というのが本当のところだったと思いますが)と宣告されました。勤めている間に貯めた一〇〇万円を元手に、わたしは一人東京へと向かいました。それでも、わたしは希望で胸がいっぱいでした。もう一度勉強できるチャンスを、唯一合格通知をくれたN大国文学科が与えてくれたからです。そして、この大学生活は、わたしのささやかな人生の、大きな転機となったのでした。
【豊栄高等学校文芸同好会会誌「凪」第4集(2004年3月5日発行)より】