エッセイアーカイブの9本目は、豊栄高校文芸同好会誌「凪」の第6集に書いた顧問エッセイです。おヒマな折にでもお読みください。
英語で苦しみ、方言調査で充実
アルバイトと音楽に明け暮れていた大学生活でしたが、いくらなんでもそればかりやっていたわけではありません。当然ながら、さまざまな講義を受けて必要な単位を取らなければ、卒業することはできません。大学生なのですから勉強するのはあったり前なことなのですが、何しろ学費も生活費もアパートの家賃もついでに飲み代も楽器代も全部自分で稼がなければならない「苦学生」だったわたしは、ともすると疲労で、特に朝一番の授業などにはなかなか出られないこともありました。
問題はそれだけではありません。以前書いたとおり、大学受験では英語を捨てて、国語と政治経済に絞って勉強し、うまいこと合格することができましたが、そのツケは入学後に何倍にもなって返ってきたのです。わたしの所属学科は国文学科だったので、授業は全部国語とまでは言わないけれど、まあ大半が国語なのだろう、と勝手に思っていました。ところが、大学の一~二年生では「一般教養」を学ばなければなりません。そこでは、国語だけでなく、社会科や体育、場合によっては理科や数学なども受講することになります。まあ、それはいいのですが、問題なのは、英語でした。
日本の大学はどこも、第一外国語と第二外国語を履修しなければなりません。で、第一外国語はほとんどの大学が英語なわけです。それも、N大文系学科の学生は英語Ⅰ~Ⅴを必ず修得しなければなりませんでした。つまり、英語の単位を落とすと、いつまでたっても卒業できないというわけです。
ところが、何しろわたしは英語が超苦手。忘れもしない高校三年のとき、英語の授業で指名されて教科書の読みをやらされたのですが、「care」を「チアー」と読んでしまい、クラス中の笑いものになってしまったこともあります(もちろん「ケアー」が正解ですね)。あきれた英語の先生はそれ以来、わたしを一切指名しなくなってしまいました(列ごとに指名するのですが、わたしの前まで来ると、その次はわたしの後ろに跳ぶのです。わたしはそんな仕打ちを受けながら、「こりゃ楽だ」と思っていました。わははは)。
そんなザマですから、大学の英語など、もちろんハナから全然わかりません。一年生の頃から、英語とついでに第二外国語のフランス語は全く単位を取れませんでした。まあ、フランス語は修得できなくても卒業には関係ないのでよいのですが(そんなことを思っているから単位が取れない)、英語は落としっぱなしにするわけにはいきません。しかしどうやってもわからないものはわからない。途方に暮れていると、大学の「ヌシ」の六年生の先輩が言いました。「英語はカネで買えるぞ」。そう。N大文理学部は、わたしのようなおバカさんたちのため、夏休みに外国語の集中補講を行なっていました。一〇日間の補講を受ければ、その単位がもらえます。そのために必要な受講料が五〇〇〇円、ということだったのです。しかも先輩が言うには、その補講は、出席さえしていればテストがダメでも単位が出る、というではありませんか。
もちろんわたしはそれに参加しました。なけなしのバイト代をつぎ込み、眠気を我慢しながら暑い夏の教室で補講を受けました。最終日のテストはやっぱりさっぱりできませんでしたが、それでも成績表には合格の証し「C」(A、B、Cが合格で、Cはギリギリ合格というレベル)がつきました。このようにして、わたしは英語Ⅰ~Ⅴのすべてを補講でゲットしたのです。
振り返ると、たいそうろくでもない大学生だったと思います。けれど、もちろん自分にとって必要で大切な勉強はしていました(本当です。信じて)。その一つが、方言の研究でした。
新潟が大好きなわたしは、大学に入ったら新潟に関わる研究をしたい、と考えていました。たまたま国文学科に、国語学者で方言研究者のN教授がいらっしゃったこともあり、わたしは研究テーマに方言を選びました。大学三年の夏休みから方言調査にも出かけました。ちなみに卒業論文のタイトルは「新潟県北蒲原郡聖籠町及びその周辺地域における語彙分布についての言語地理学的考察」(長げ~)。つまり、阿賀野川右岸から中条町にかけての海岸沿いの集落を歩き、土地に長く住んでいるお年寄りの皆さんから土地の言葉について教えてもらい、それを学問的に考える、という研究をしたのです。
この研究はフィールドワークがメインで、同じ国文学科の学生がさまざまな本を読んで研究を進めているのとは対照的でした。もちろん専門書などは読むのですが、何しろ大切なのは現場に行って話を聞くこと。長期の休みには必ず現地に入り、来る日も来る日もお年寄りを訪ね歩いて話を聞きました。飛び込みの調査ですから、緊張もしますし、いつもすんなりいくとは限りません。怪しまれ、断られることももちろんありました。豊栄のとある集落で、数十件あるすべての家から調査を拒否されたこともあります。あとで聞くと、金(ゴールドの方ね)の証券詐欺に多くの家が引っかかってしまった集落だったとのこと。悪いやつらのせいで、俺まで怪しまれるじゃないか、とその時は悔しい思いもしました。
けれど、快く調査に応じてくださった方々のおかげで、面白い、あるいは歴史的にも古く価値のある、学術的にも大変ユニークな方言を採取することもできました。そして、充実感も得ました。それは、打ち込める何かを見つけた喜びを感じていたからだと思います。確かに体力も気も使う研究でしたが、わたしの人生にとっては、かけがえのない経験でした。その経験が、わがままでジコチュウで、どうしようもなく未熟なバカガキだったわたしを、多少なりとも成長させてくれたのではないか、という気もするのです。
【豊栄高校文芸同好会「凪」第六集 2005.3】