エッセイアーカイブの12本目は、顧問エッセイの最終回。豊栄高校文芸同好会誌「凪」の第3集に書いた顧問エッセイです。おヒマな折にでもお読みください。
豊栄高校文芸同好会誌「凪」、新潟東高校文芸部誌「簓」に書いた顧問エッセイはこれで打ち止め。次回からは、新潟県人権・同和センターニュースに書いた編集後記をアップしていく予定です(あくまで予定)。そちらもよろしければお付き合いください。
サジちゃんの思い出
大学生のころは、映画を撮っていました。
というと、なんだか大げさな感じですが、映画といってもいわゆる「八ミリ映画」のことです。今の皆さんにはピンと来ないでしょうが、簡単にいえば、八ミリ幅の写真のフィルムを使った小型カメラによる映画で、撮影したフィルムは写真屋さんに現像してもらい、その後そのフィルムを切ったりつないだりして編集し、アフレコをして仕上げるという、まあ、いわば本物の映画の小型版です。私が高校を出てから大学を卒業するまでの五~六年間、一九七〇年代後半から一九八〇年代中盤にかけては、アマチュアの自主製作映画作りがたいへん盛んでした。東京の情報誌が主催していた自主映画のコンテストには、いつも多数の応募があり、その中には、後にプロの映画監督になった人が何人もいました。
わたしも、そんな時代のムードに乗せられたのでしょう。新潟が、比較的自主映画制作の盛んな土地柄で、友人たちも映画を作っていたこともあり、さして映画ファンでもなかったくせに、大学に入ると同時に、当時最高級の八ミリカメラと映写機、編集機などをなけなしの金をはたいて購入し、映画づくりの入門書などをドロナワ式に読みながら、見よう見まねでカメラを回し始めたのです。
とはいえ、映画作りは一人でできるものではないわけですが、めぐり合わせというかなんというか、一緒に映画を作ってくれる先輩が、実にタイミングよく現われました。それは、今から思えば単なる偶然ではなかったのかもしれません。
その先輩・サジちゃんは、とにかく自由で破天荒な人でした。何をやるにも、ためらいというものがないのです。絵も歌も文章も玄人はだしで、マンガを描かせればたちまちコンテスト入選というような、パワーと才能の塊のような人でした。明るく元気なサジちゃんの周りには、彼を慕っていつも多くの人が、男女を問わず集まっていました。まあ、その性格のため、仕事が長続きしないというのが欠点だったと言えば言えますが(何しろ、最も短い勤めは何と半日!)、彼のことをキライだ、という人は、おそらく誰もいなかったのではないかと思います。とにかく魅力的な人でした。
わたしがサジちゃんと出会ったのは、わたしが大学一年のとき。所属していた音楽サークルの先輩としてでした。初対面にもかかわらずサジちゃんはとにかくものすごくフレンドリーで、ものすごく明朗で、ものすごくヘンな人でした。その時、サジちゃんの年齢はすでに二七歳くらいで、とっくに大学は卒業していたと思います。なぜそんな年まで大学に出入りしているのかは謎でしたが、なぜかさほどの違和感もなく、わたしもその人間性に惹きつけられたのです。
ある日わたしはサジちゃんに、「映画を作りたいんですよね」と話を切り出しました。なんとなく、サジちゃんなら一緒に映画を作ってくれそうな気がしたのです。その予想は当たりました。というか、サジちゃんからは、予想以上の反応が帰ってきました。「おう、やろうやろう。早速脚本書いてくるよ」。そう、なんとサジちゃんは、以前から八ミリ映画を作っており、何本もの作品があるというではありませんか。
たちまちマンガ形式の脚本を仕上げてきた(それがまた、それだけ読んでも面白いのです)サジちゃんは、知りあいの学生たちに映画出演を呼びかけました。まだ一年生でぺーぺーのわたしが声かけをしてもおそらく誰も集まりはしなかったでしょうが、サジちゃんに声を掛けられればイヤという人はいません。たちまち大勢の出演者とスタッフが集まり、映画作りはスタートしました。
映画のジャンルは、学園青春熱血感動革命的ソフトボール映画(笑)。タイトルは「吠えろ! 青春」(大笑)。早い話が、当時テレビで流行っていた青春ドラマの左翼的パロディーなのですが(何しろ左翼系音楽サークルだったので)、ともするとバカバカしいだけで単なるドタバタになりそうな話を、サジちゃんは実におもしろいストーリーに仕立て上げていました。わたしはカメラマンとして全てのシーンの撮影をしましたが、サジちゃんの演出はまあなんというか見事なもので、はっきり言ってプロみたいでした。わたしはサジちゃんによって、映画作りの楽しさをイヤというほど教わりました。それだけでなく、みんなで力を合わせて意見をぶつけ合いながら、一つのものを作り上げていくことの楽しさも同時に教えてもらいました。そして、サジちゃんはわたしにとって、誰にも代えがたいすばらしい先輩であり、先生であり、友人となっていたのです(その映画作りと並行して、わたしは自分の作品作りもしました。その作品は、幸いなことに当時の新潟のアマチュア映画のコンテストに入選しました。それも、サジちゃんの教えがあってのことです)。
お金も時間もかかったのですが、みんなで一所懸命やりくりして、なんとか乗り切りました。みんな、お祭りのように楽しんでいました。サジちゃんが、みんなを引き付ける磁石のような役割を果たしていました。サジちゃんが言うなら、協力しようじゃないか。みんな、そんな感じだったのだと思います。秋の終わりから撮り始めたその映画は、翌年の春の初めに撮影が終了しました。編集作業も終わり、あとはアフレコを済ませば完成です。
サジちゃんが体調を崩したのは、ちょうどそんな時でした。肝臓の調子が悪いという話で、しばらく入院が必要とのことでした。アフレコに入る直前のことで、わたしは、早くサジちゃんとアフレコ作業を始めたい、と思っていました。入院中のサジちゃんを見舞い、「早く帰ってきてくださいよ」などとお願いもしました。
そんな初夏のある日、サークルのリーダーが部員を集めました。そして、こう告げたのです。「桟敷原(サジちゃんの姓)は、ガンで、あと半年の命だそうだ」。
うそだろう? その場は静まり返りました。わたしも、信じられない思いでした。まだ映画は完成していないのに、死なれては困る。そんな、あまりにも勝手なことを思ったりもしました。わたしは、リーダーの言葉を、しっかり受け止めることがどうしてもできませんでした。サジちゃんがガン。あと半年の命。そんな言葉が、わたしの目の前の宙を舞っていました。
それからしばらく、サジちゃんは元気にふるまっていました。病院を抜け出し、大学にまで顔を出したこともありました。わたしはそんなサジちゃんを見て、「なんだ、元気じゃん。大丈夫、サジちゃんは死なない」と思いました。まだ撮りたい映画もある。それはサジちゃんとしか作れない。サジちゃんとなら、なんでもできる。だから、サジちゃんは死なない。死なせてたまるか。そんなことを、そのときのわたしは思っていたのだと思います。
けれど、それから半年後、サジちゃんは亡くなりました。わたしのアパートの部屋で、なぜか予告もなくやってきたサークルの仲間と酒を飲んでいるときに、電話が鳴りました。受話器の向こうでサークルの先輩は、サジちゃんの死を告げました。サークルの仲間とわたしは、その後黙って酒を呑み続けるだけでした。
通夜に出席し、棺に眠っているサジちゃんの顔を見た瞬間、私は泣きました。電話でサジちゃんの死を知らせてもらったときには流れなかった涙が、止めどもなく流れました。身近な、大切な人の死を経験したのは、それが初めてでした。
サジちゃんが亡くなったときの年齢は二十八歳。私の年齢はいつのまにかその倍を超えてしまいました。サジちゃんの命日に合わせて毎年秋、東京のサジちゃんの墓前で、当時の先輩たちとわたしは酒盛りをするのが通例となっています。墓石にはサジちゃんの好きだった白ワインを備え、わたしたちはめいめい持ち寄った酒を吞み、ひとしきり語り合います。先輩たちの外見は(もちろんわたしも)、いつの間にかみんな、何だか落ち着いた、あるいは枯れたおじさんになりました(若いままなのは、実はサジちゃんだけです)。でも、中身は当時の熱いものを消さずに持ち続けています。サジちゃんという存在があったからこそ、こうやって今もつながり続けることができる。だから、実はサジちゃんは、こんな形でわたしたちの中に生き続けている、そんなふうにも思っています。
とうとうアフレコをされることのないままとなってしまったそのフィルムは、今も私の手元にあります。数年前、思い立ってそのフィルムからDVDを制作しました。それを、今も大変お世話になっているかつてのサークルのリーダーにお渡しし、この映画に関わった皆さんにコピーを配っていただきました。音のないその映画には、あの頃のサジちゃんや大学の先輩たち、そしてわたしの映像が、八ミリの粗い画面の中に息づいています。折に触れてその画像を見るたび、根拠のない希望を抱いて生きていた、若すぎるバカだったわたしの、ある意味夢のような大学生のころを、懐かしさと少しのほろ苦さ、切なさとともに思い出すのです。
【豊栄高校文芸同好会誌 「凪」第3集(2003年9月16日発行)顧問エッセイに加筆しました】