ばらくてブログ――おうたのかいオブさんのおおばらブログ――

おうたのかい作曲・歌唱担当オブさんが、日々のあれこれをてきとうに綴る、まとまりもとりとめもないいかがわ日記

今日も今日とてヨッパライ天国もしくはジゴク その35 雅楽代 日和

2021-07-17 16:40:43 | 今日も今日とてヨッパライ天国もしくはジゴク
昨日の晩酌酒は、佐渡・天領盃酒造の「雅楽代 日和」。越淡麗100%の純米原酒ながらアルコール度数は13%で、べたつかない甘さとほんのりとした酸が爽やかで切れがよく、白ワイン的に(もちろん白ワインとは別物の味わいですが)味わえる。キリッと冷やして暑い夏の夜に吞みたい美酒。これも酒飲み初心者に勧めたい。すばらしい😍

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今日も今日とてヨッパライ天国もしくはジゴク その34 越後雪紅梅純米吟醸生酒

2021-07-15 20:55:05 | 今日も今日とてヨッパライ天国もしくはジゴク
昨日の晩酌酒は、長岡は摂田屋・長谷川酒造の「越後雪紅梅純米吟醸生酒」。越淡麗の良さを見事に引き出した、雑味なく香りよく爽やかですっきりした甘みと切れのよい後味がステキな夏酒。日本酒はどうも苦手、という酒飲み初心者にも勧めたいナイスな美酒。すばらしい😍
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エッセイアーカイブ⑬  顧問エッセイ補遺

2021-07-13 00:49:06 | エッセイアーカイブ
エッセイアーカイブの13本目は、顧問エッセイの補遺です。おヒマな折にでもお読みください。
豊栄高校文芸同好会誌「凪」、新潟東高校文芸部誌「簓」に書いた顧問エッセイはこれで打ち止め。次回からは、新潟県人権・同和センターニュースに書いた編集後記をアップしていく予定です(あくまで予定)。そちらもよろしければお付き合いください。

顧問エッセイ 補遺

12本にわたる顧問エッセイにお付き合いいただき、ありがとうございます。
 顧問エッセイは、21世紀初頭に、当時勤務していた豊栄高校で文芸同好会を発足させ、同好会誌「凪」を発刊してから、そこの巻末に書き始めたのが始まりです。「凪」では3年間、第6集まで、新潟東高校に異動してからも、「簓」という文芸部誌を新創刊してそこでも3年間、第6集まで、欠かさず書き続けました。
 紆余曲折を経て高校教員となったわたしは、どうせなら文芸部の顧問になりたいと思っていたのですが、1校目・2校目では残念ながら文芸部そのものがなく、3校目の豊栄高校で、だったら作ろうと思い立ち、めぼしい生徒さんに声をかけ、文芸同好会を立ち上げました。まさかそれが、教員生活の終わりまで続く、新潟県の高校文芸部員とのお付き合いの始まりになろうとは、その時は思いもしませんでした(その後、新潟東高校に異動した私は、希望通り文芸部の顧問になると同時に、新潟県高等学校文化連盟文芸専門部の委員長になっちゃったのです)。
 豊栄高校文芸同好会には、意外にも(といったら大変失礼ですが)文芸センスを持った生徒が多数集まりました。勢いのある学園もの小説や、設定に凝った探偵小説を書く生徒、言葉の力にあふれる詩を書く生徒など、驚くほどの才能を発揮する会員たちのおかげで、そこそこ面白い文芸誌を作ることができました。予算はないので、文化祭で配分される予算と私のお小遣いで紙や製本テープ、大型ステープラーなどを調達し、私がパソコンで版下を作り、学校の印刷機で印刷した後、休日の学校で部員総出で製本作業を行って作り上げました(新潟東高校でも全く同様に制作しました。東高校にも才能を感じるユニークな部員が多数いたことは言うまでもありません)。
 さて、顧問エッセイは、そんな生徒さんたちと比較してもどうにも大したことなど書けない私が、それでも顧問として、高校生の皆さんに多少なりとも伝わることを書こうと、私自身のしょうもない経験のあれこれを元ネタに綴ったものです。書いた内容は、多少の整形を施してはいますが、基本的にすべて事実です。実際、高校のときも高卒後の勤め人のときも大学のときも大卒後の勤め人のときも、それはそれはいろいろみっともなくふがいなく面目ないことが多々あったわけですが、そういうネガティブなことは簡単に済ませ(「もてない人になる方法」で、ちょっとその片鱗を書いています)、できれば、読み物として楽しく読んでもらいたい、で、もし何なら自分の創作の参考にしてもらいたい、と思って書きました。ただ、そもそも、教員だからといって、何かエラそうなことなど書けませんし、そもそも書く気もありません。しかし何しろ高校生向けの文章なので、高校の文芸誌にはちょっと書けないネタは封じてあります。そういう文章は、また機会を改めて、noteに書いていきたいと思っています。
 それでも、顧問エッセイを書くのは、私にとってはとても楽しいことでした。これを書いていると、昔のことが、ふしぎに思い出されてくる。その経験は、私にとってはとても心地よいものでもありました。そんな文章が、もし、ここの読者の皆さんのお気に召したなら、とてもうれしく思います。

今日も今日とてヨッパライ天国もしくはジゴク その33 麒麟山超辛口生酒

2021-07-11 12:05:39 | 今日も今日とてヨッパライ天国もしくはジゴク
◆昨日の晩酌酒は、麒麟山酒造の「麒麟山超辛口生酒」。いかにも麒麟山らしい爽快な夏酒。すっきりキリッとした味わいで、辛口でありながらほんのり甘み・旨みも感じる奥深さ。さすがです♥️。旬の枝豆に合う合う。すばらしい😍。
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エッセイアーカイブ⑫  サジちゃんの思い出(顧問エッセイ最終回)

2021-07-10 11:58:31 | エッセイアーカイブ
エッセイアーカイブの12本目は、顧問エッセイの最終回。豊栄高校文芸同好会誌「凪」の第3集に書いた顧問エッセイです。おヒマな折にでもお読みください。
豊栄高校文芸同好会誌「凪」、新潟東高校文芸部誌「簓」に書いた顧問エッセイはこれで打ち止め。次回からは、新潟県人権・同和センターニュースに書いた編集後記をアップしていく予定です(あくまで予定)。そちらもよろしければお付き合いください。

サジちゃんの思い出

 大学生のころは、映画を撮っていました。
 というと、なんだか大げさな感じですが、映画といってもいわゆる「八ミリ映画」のことです。今の皆さんにはピンと来ないでしょうが、簡単にいえば、八ミリ幅の写真のフィルムを使った小型カメラによる映画で、撮影したフィルムは写真屋さんに現像してもらい、その後そのフィルムを切ったりつないだりして編集し、アフレコをして仕上げるという、まあ、いわば本物の映画の小型版です。私が高校を出てから大学を卒業するまでの五~六年間、一九七〇年代後半から一九八〇年代中盤にかけては、アマチュアの自主製作映画作りがたいへん盛んでした。東京の情報誌が主催していた自主映画のコンテストには、いつも多数の応募があり、その中には、後にプロの映画監督になった人が何人もいました。
 わたしも、そんな時代のムードに乗せられたのでしょう。新潟が、比較的自主映画制作の盛んな土地柄で、友人たちも映画を作っていたこともあり、さして映画ファンでもなかったくせに、大学に入ると同時に、当時最高級の八ミリカメラと映写機、編集機などをなけなしの金をはたいて購入し、映画づくりの入門書などをドロナワ式に読みながら、見よう見まねでカメラを回し始めたのです。
 とはいえ、映画作りは一人でできるものではないわけですが、めぐり合わせというかなんというか、一緒に映画を作ってくれる先輩が、実にタイミングよく現われました。それは、今から思えば単なる偶然ではなかったのかもしれません。

 その先輩・サジちゃんは、とにかく自由で破天荒な人でした。何をやるにも、ためらいというものがないのです。絵も歌も文章も玄人はだしで、マンガを描かせればたちまちコンテスト入選というような、パワーと才能の塊のような人でした。明るく元気なサジちゃんの周りには、彼を慕っていつも多くの人が、男女を問わず集まっていました。まあ、その性格のため、仕事が長続きしないというのが欠点だったと言えば言えますが(何しろ、最も短い勤めは何と半日!)、彼のことをキライだ、という人は、おそらく誰もいなかったのではないかと思います。とにかく魅力的な人でした。
 わたしがサジちゃんと出会ったのは、わたしが大学一年のとき。所属していた音楽サークルの先輩としてでした。初対面にもかかわらずサジちゃんはとにかくものすごくフレンドリーで、ものすごく明朗で、ものすごくヘンな人でした。その時、サジちゃんの年齢はすでに二七歳くらいで、とっくに大学は卒業していたと思います。なぜそんな年まで大学に出入りしているのかは謎でしたが、なぜかさほどの違和感もなく、わたしもその人間性に惹きつけられたのです。

 ある日わたしはサジちゃんに、「映画を作りたいんですよね」と話を切り出しました。なんとなく、サジちゃんなら一緒に映画を作ってくれそうな気がしたのです。その予想は当たりました。というか、サジちゃんからは、予想以上の反応が帰ってきました。「おう、やろうやろう。早速脚本書いてくるよ」。そう、なんとサジちゃんは、以前から八ミリ映画を作っており、何本もの作品があるというではありませんか。
 たちまちマンガ形式の脚本を仕上げてきた(それがまた、それだけ読んでも面白いのです)サジちゃんは、知りあいの学生たちに映画出演を呼びかけました。まだ一年生でぺーぺーのわたしが声かけをしてもおそらく誰も集まりはしなかったでしょうが、サジちゃんに声を掛けられればイヤという人はいません。たちまち大勢の出演者とスタッフが集まり、映画作りはスタートしました。
 映画のジャンルは、学園青春熱血感動革命的ソフトボール映画(笑)。タイトルは「吠えろ! 青春」(大笑)。早い話が、当時テレビで流行っていた青春ドラマの左翼的パロディーなのですが(何しろ左翼系音楽サークルだったので)、ともするとバカバカしいだけで単なるドタバタになりそうな話を、サジちゃんは実におもしろいストーリーに仕立て上げていました。わたしはカメラマンとして全てのシーンの撮影をしましたが、サジちゃんの演出はまあなんというか見事なもので、はっきり言ってプロみたいでした。わたしはサジちゃんによって、映画作りの楽しさをイヤというほど教わりました。それだけでなく、みんなで力を合わせて意見をぶつけ合いながら、一つのものを作り上げていくことの楽しさも同時に教えてもらいました。そして、サジちゃんはわたしにとって、誰にも代えがたいすばらしい先輩であり、先生であり、友人となっていたのです(その映画作りと並行して、わたしは自分の作品作りもしました。その作品は、幸いなことに当時の新潟のアマチュア映画のコンテストに入選しました。それも、サジちゃんの教えがあってのことです)。
 お金も時間もかかったのですが、みんなで一所懸命やりくりして、なんとか乗り切りました。みんな、お祭りのように楽しんでいました。サジちゃんが、みんなを引き付ける磁石のような役割を果たしていました。サジちゃんが言うなら、協力しようじゃないか。みんな、そんな感じだったのだと思います。秋の終わりから撮り始めたその映画は、翌年の春の初めに撮影が終了しました。編集作業も終わり、あとはアフレコを済ませば完成です。

 サジちゃんが体調を崩したのは、ちょうどそんな時でした。肝臓の調子が悪いという話で、しばらく入院が必要とのことでした。アフレコに入る直前のことで、わたしは、早くサジちゃんとアフレコ作業を始めたい、と思っていました。入院中のサジちゃんを見舞い、「早く帰ってきてくださいよ」などとお願いもしました。
 そんな初夏のある日、サークルのリーダーが部員を集めました。そして、こう告げたのです。「桟敷原(サジちゃんの姓)は、ガンで、あと半年の命だそうだ」。
 うそだろう? その場は静まり返りました。わたしも、信じられない思いでした。まだ映画は完成していないのに、死なれては困る。そんな、あまりにも勝手なことを思ったりもしました。わたしは、リーダーの言葉を、しっかり受け止めることがどうしてもできませんでした。サジちゃんがガン。あと半年の命。そんな言葉が、わたしの目の前の宙を舞っていました。

 それからしばらく、サジちゃんは元気にふるまっていました。病院を抜け出し、大学にまで顔を出したこともありました。わたしはそんなサジちゃんを見て、「なんだ、元気じゃん。大丈夫、サジちゃんは死なない」と思いました。まだ撮りたい映画もある。それはサジちゃんとしか作れない。サジちゃんとなら、なんでもできる。だから、サジちゃんは死なない。死なせてたまるか。そんなことを、そのときのわたしは思っていたのだと思います。
 けれど、それから半年後、サジちゃんは亡くなりました。わたしのアパートの部屋で、なぜか予告もなくやってきたサークルの仲間と酒を飲んでいるときに、電話が鳴りました。受話器の向こうでサークルの先輩は、サジちゃんの死を告げました。サークルの仲間とわたしは、その後黙って酒を呑み続けるだけでした。
 通夜に出席し、棺に眠っているサジちゃんの顔を見た瞬間、私は泣きました。電話でサジちゃんの死を知らせてもらったときには流れなかった涙が、止めどもなく流れました。身近な、大切な人の死を経験したのは、それが初めてでした。

 サジちゃんが亡くなったときの年齢は二十八歳。私の年齢はいつのまにかその倍を超えてしまいました。サジちゃんの命日に合わせて毎年秋、東京のサジちゃんの墓前で、当時の先輩たちとわたしは酒盛りをするのが通例となっています。墓石にはサジちゃんの好きだった白ワインを備え、わたしたちはめいめい持ち寄った酒を吞み、ひとしきり語り合います。先輩たちの外見は(もちろんわたしも)、いつの間にかみんな、何だか落ち着いた、あるいは枯れたおじさんになりました(若いままなのは、実はサジちゃんだけです)。でも、中身は当時の熱いものを消さずに持ち続けています。サジちゃんという存在があったからこそ、こうやって今もつながり続けることができる。だから、実はサジちゃんは、こんな形でわたしたちの中に生き続けている、そんなふうにも思っています。

 とうとうアフレコをされることのないままとなってしまったそのフィルムは、今も私の手元にあります。数年前、思い立ってそのフィルムからDVDを制作しました。それを、今も大変お世話になっているかつてのサークルのリーダーにお渡しし、この映画に関わった皆さんにコピーを配っていただきました。音のないその映画には、あの頃のサジちゃんや大学の先輩たち、そしてわたしの映像が、八ミリの粗い画面の中に息づいています。折に触れてその画像を見るたび、根拠のない希望を抱いて生きていた、若すぎるバカだったわたしの、ある意味夢のような大学生のころを、懐かしさと少しのほろ苦さ、切なさとともに思い出すのです。

【豊栄高校文芸同好会誌 「凪」第3集(2003年9月16日発行)顧問エッセイに加筆しました】

今日も今日とてヨッパライ天国もしくはジゴク その32 今週の晩酌酒は白雁本醸造にごりと麒麟山ぽたりぽたり越淡麗

2021-07-10 10:01:47 | 今日も今日とてヨッパライ天国もしくはジゴク
◆先日の晩酌酒①は、長岡・三島は中川酒造の「越乃白雁本醸造にごり酒」。夏になると吞みたくなる、甘辛酸旨のバランスがとれた、なめらかな口当たりの爽やかなにごり酒。しっかり冷やして肉料理などに合わせると絶妙の相性。すばらしい😍。
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◆先日の晩酌酒その2。阿賀町津川は麒麟山酒造のしぼりたて生酒「ぽたりぽたりきりんざん越淡麗」を1年半冷蔵庫で寝かせたもの。美しい香り、雑味のない旨みと爽やかさが存分に発揮された持ち味が、寝かせていても崩れないどころか、まろやかさも増していてもうたまらん。肴がなくてもグビグビいける。越淡麗の良さを見事に引き出した、さすがとしか言いようのない超美酒。すばらしい😍。
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エッセイアーカイブ⑪  もてない人になる方法

2021-07-09 18:48:23 | Weblog
エッセイアーカイブの11本目は、新潟東高校文芸部誌「簓」の第4集に書いた顧問エッセイです。おヒマな折にでもお読みください。

もてない人になる方法 

 今も昔も、若い人たちにとって大切なものはといえば、異性(もちろん同性でもOK)を恋い慕う心、早い話が恋愛感情とか、あるいはお互いを大切な存在として認めあう友情とかであるようです。映画やテレビドラマ、小説やマンガの世界などでも、恋愛や友情をテーマにしたものがやはり主流です。まあ、中には「何よりもお金やモノのほうが大切だオレは」などという人もいるのでしょうが、それはそれとして、一般的には、若い人たちの多くは「愛情」を注ぎ注がれる相手を、また、心と心を開き合い通わすことのできる親友を常に追い求めているように見えます。
 実は、そうした思いは若いときだけのものではありません。社会に出て勤め人などになれば、上司や同僚との人間関係も常に良好に保っていたいものですし、できれば「良い人間」として認められたい、愛される人間になりたいとだれもが思います。結婚などしてしまえば、妻や夫、子供にも愛情を常に注ぎ続けることも要求されます。ぶっちゃけた話、人生とは「愛を追い求め続けること」であるとも言えます。
 しかし、そんなふうにやっていると、どうしても途中で息切れがします。早い話が、嫌われないように、好かれるように振る舞うことに疲れてしまうのですね。あんまり愛を求めすぎるのも、そういう意味ではとっても「ウザい」ものです。
 そんなうっとうしい人間関係から解放されたい、真の意味で自分らしい生き方をしたい、という方々のために、わたしは「もてない人」になることを提唱します。もてない人になれば、ウザい人間関係から解放され、他人に気を使う必要もなく、自分独りの世界を守ることができるのです。この際、ここで皆さんに、わたしの経験に基づいた「もてない人になる方法」を伝授いたします。

①根拠のない自信を持つ
 「もてない人」になる第一歩は、根拠のない自信を持つことです。例えば、高校生のころのわたしは、とにかく自分の能力というか才能に、やたら自信を持っていました。将来は売れっ子のシンガーソングライター、あるいはベストセラー小説家になるのだと、何の根拠もないのに思っていました。毎日毎日文芸部室で歌を唄い、オリジナルの歌を作り、小説めいたものを書いては、周りの仲間に聴かせ、読ませていました。それが、本当は箸にも棒にも掛からない駄作であろうと関係はありません。とにかく、「自分はすごい」と思うことが大事なのです。

②しかし、努力はしない
 ですが、そのために努力をする、などということはやってはいけません。高校生のころのわたしも、もちろん努力などしませんでした。小説を書くために何か特別な勉強をしたということもありませんし、シンガーソングライターになるために作曲や作詞の基本を学んだなどということもありません。夢を実現するためひたむきな努力などしてしまうと、周りから「あいつは夢を実現しようとがんばっている魅力的なやつだ」などと思われ、あろうことか友人が増えたり、彼女・彼氏ができちゃったりしてしまうからです。うっとうしい人間関係から逃れたいのなら、そんなことになれば大変です。間違っても、努力などしてはいけません。そうすれば、「あいつは口先だけの人間だ」と思われ、友人も次第に減っていき、もちろん彼女・彼氏などできる心配もなくなります。
 このような人間になれば、もう確実に「もてない人」への道をまっしぐらですが、まだまだ足りません。さらにもう一押し、

③常に自分中心に考え、行動する
 ということが重要になります。
 「もてない人」であるためには、とにかく自分が一番でなければ気が済まない、という態度を貫かなければなりません。例えば、友人同士が何か共通の話題について楽しく語らっているときに唐突に割り込んで、全く関係のない自分の話に強引に持っていってしまう、などという行為を「もてない人」は平気でできなければいけないのです。いつでも自分が話題の中心でなければ気が済まず、もし話題が自分と関係のない中身で終始し、自分が置き去りにされたと感じれば、たちまち不機嫌になって場の空気を壊し、それでもだれも自分を相手にしてくれないと、いじけて家に帰ってしまったり、場合によっては大暴れしたり。これこそが「もてない人」の行動の真骨頂です。早い話が「自分を中心にオレの話を聞けと叫ぶ」わけですね。
 そこで大事なのは、「もてない人」本人は、周りの人たちから自分が嫌われ、ウザがられているなどとは夢にも思ってはいけない、ということです。いつでもどこでも、自分こそが王様なのであり、世界の中心なのであり、従って自分のあらゆる行動を周りの人間はすべて許容しなければならず、自分のことを周りはもっと気を使ってくれて当然だ、とこのように思わなければなりません。もちろん、他人の話なんかいちいち聞いてはいけません。ここまで来れば、「孤独ライフ」を満喫できるようになるまであとほんのちょっとですが、さらにダメ押しするならば、

④相手の話を常に否定し、揚げ足を取る
 という態度を常にとるのもいいでしょう。友人と会話をしていても、いちいち「それは違うんじゃない」「それって意味分かんないよ」「バッカじゃないの」などと言い続ければ、確実に嫌われること請け合いです。
⑤「もてない人」のでき上がり
 てなわけで、以上のことを実践すれば、そのうち、仲間からの遊びや宴会にも誘われなくなり、もちろん電話やメール、手紙も来なくなります。これで、立派な「もてない君」のでき上がりです。

 そんな「もてないくん」だったわたしですが、高校を出て大学生や社会人になり、シャバを渡っていく中で、いろいろと生きにくさを感じることも多くなったので、とりあえず「もてない君」の振る舞いをやめてみました。すると、いつの間にか友人も増え、何と数年前には結婚までしてしまいました。
 もちろん、友人との人間関係には面倒くささも伴いますし、連れ合いからはしょっちゅう生活態度について叱られたりもするのですが、昔と今と、どっちが楽しい? と尋ねられれば、「そりゃあ今の方がずーっと楽しいねえ」と答えてしまう、わたしなのでした。

新潟東高等学校文芸部部誌「簓」第4集(2007年3月6日発行)顧問エッセイより

エッセイアーカイブ⑩  悪戦苦闘のブンヤ稼業で文章修業

2021-07-08 13:52:41 | エッセイアーカイブ
エッセイアーカイブの10本目は、新潟東高校文芸部誌「簓」の第3集に書いた顧問エッセイです。おヒマな折にでもお読みください。

悪戦苦闘のブンヤ稼業で文章修業

 以前にも書いたように、高校生の時には文芸部に所属し、小説めいたものをちょっと書いていたわたしは、文章を書くことに根拠のない自信を持つようになり、大学生のときには、卒業したらぜひそっち方面の会社に就職したいと考えるようになっていました。また、当時は、今はなき「朝日ジャーナル」や「噂の真相」など、硬軟さまざまな雑誌をむさぼるように読んでいて、ジャーナリストという仕事に憧れるようにもなっていました。具体的には、出版社か新聞社などの会社に入社して。文章書きの仕事をしたい、と思ったわけです(プロの作家になろう、というのではないところが、今から考えればアレですね)。
 大学四年のときには、東京の大手出版社や新聞社の就職情報を片っ端からかき集め、受験する前から入社した気になりながら、さてどこを受けようか、などと構えていました。いちばん行きたかった出版社は、残念ながらその年入社試験を実施しない、ということが分かり、がっかりしながらも気を取り直して次のターゲットを捜し、そうして願書を提出したのが、N日報、M新聞、J通信の三社でした。もちろん試験勉強も怠りません。「新聞ダイジェスト」とか「ニュースファイル」といったニュース雑誌を買い込み、毎日枕元に置いて読みながら寝ていました(笑)。
 しかし、結果は惨憺たるものでした。J通信は英語の問題が全く解けず、あえなく一次試験で敗退。N日報とM新聞は最終面接まではたどり着いたのですが、M新聞では、当時刑事被告人で新潟県出身のT元首相を「T先生」と連呼して試験官の失笑を買い、N日報ではいきなり「新聞記者は向いてないんじゃない?」などと突っ込まれて頭の中が大混乱に陥り、結局、すべて不合格というていたらく。ろくに勉強もせずシャレで受けた教員採用試験ももちろん受かるはずもなく、就職が決まらないまま卒業しなければならない事態となったのでした。大学で好きなことしかやってこなかったツケを、ここで一気に払わされた、という感じです。
 さて、どうしよう。ここでわたしが選んだのは、「留年してもう一度挑戦しよう」という選択でした。学費・生活費すべてを奨学金とアルバイトで賄っていたわたしにとっては、相当厳しい賭けのようなものです。なにしろ、留年すれば奨学金はもちろんもらえなくなりますから、その分金銭的には大変つらいことになります。それでも、一度立てた目標を安易に引っ込めるわけにはいきません。少なくとも二社は最終面接までこぎ着けた、というのがなけなしの自信にもなっていましたし、だいたい、他の職業に就くなどということは全く考えもしなかったわたしにとっては、それ以外の道は全く見えなかったのでした。
 そしてたちまち一年は過ぎ、いよいよ二度目の挑戦です。受けたのは前年に続いてのN日報とM新聞、そしてA新聞。第一志望は全国紙のM新聞です。しかし、N日報は前年の面接の失敗がたたったのか門前払いをくらい(一次試験も受けさせてもらえませんでした)、M新聞はまたも最終面接までは行ったものの、結果は補欠。で、いちばん難しいと言われたA新聞にだけ、どういうわけか合格し(一次試験は、一般教養はまあそこそこできたものの、英語は当然一問も解けず、小論文は千六百字のところ千字程度しか書けずで落ちているのですが、その後、地方勤務記者面接の案内が届いたので面接試験を受けたら、なぜか合格しちゃったのです)、一九八六年十一月一日、わたしはA新聞仙台支局に赴任していったのでした。(大学は九月に卒業させてもらいました。わはは)
◇          ◇
 仙台での記者生活は、しかし、そんなに甘いものではありませんでした。文章を書く以前に、取材が大変なのです。駆け出し記者はみんな、いわゆる「サツ(警察)回り」から始めるわけですが、わたしはこれが大の苦手でした。警察署内を回る程度ならまだいいのですが、何より嫌いだったのが「夜討ち・朝駆け」というやつです。早い話が、おまわりさんの家に上がり込み、事件についての情報をもらうのですが、周りがすっかり寝静まった深夜におまわりさんの家に行って話を聞く、というのは、その家の家族に迷惑だろうなあとか刑事さんに嫌われるんじゃないかなあとかいろいろなことを考えてしまい、どうもうまくいきません。だから、親切な刑事さんから家に上げてもらい、情報をもらってついでに酒まで飲ませていただいたりしたときには、涙が出るほどうれしかったことを今でも覚えています。
 そんなふうにしてネタを取り、ともかく記事にしてデスクのところへ持っていくのですが、Kデスクはいつも、わたしの書いた原稿をざっと見るなり、「オボナイ(Kデスクは秋田にいたことがあり、いつも「オブナイ」を「オボナイ」というのでした)、オマエの文章には、心がないんだよ、心が」とわたしを叱り、書き直しを命ずるのです。原稿を破られたり、投げ捨てられたりしたこともしばしばでした。もちろん、ボツになった原稿は数知れません。
 今から思えば、いわゆる5W1Hという新聞記事の基本がなっていなかったということもあるのでしょうが、それ以上に文章を書く心構え自体がなっていなかったのだと思います。きちんと取材して、それを自分の心でしっかりと受け止めて、、人を納得させられる記事を書くことが、わたしには全くできていなかったことを、Kデスクは指摘していたのです。もちろん、わたしの文章書きの自信というかうぬぼれは、この時点ですっかり消えうせていました。毎日毎日叱られながら、一生懸命取材をし、原稿を書いては直される日々を過ごしながら、しかし、だんだんと、文章を書くことの本当の面白さ、難しさを、徐々にではありますが理解していきました。
◇          ◇
 個人的な事情で、A新聞には一年半だけお世話になり、新潟に戻って教員になったわたしですが、文章を書くための基本的な考え方は、仙台にいたころに身につけたように思います。今も、なかなか思うような文章は書けないままのですが、こんなことを書いているときなど、今よりずっと若かったあのころのことを、ほろ苦さとともに懐かしく思い出したりもするのです。

【新潟東高校文芸部誌「簓」第三集(2006年9月発行)顧問エッセイより】

今日も今日とてヨッパライ天国もしくはジゴク その31 姫の井かめぐち酒低温3年熟成

2021-07-07 12:17:44 | 今日も今日とてヨッパライ天国もしくはジゴク
◆昨日の晩酌酒は、柏崎・旧高柳町は石塚酒造の「姫の井かめぐち酒低温三年熟成」。姫の井ならではのもち米四段仕込み、本醸造生原酒。アルコール度数19.5度という焼酎なみの強さなので、はじめの一杯はロックで、その後はそのままでいただく。口に含むと押し寄せる旨み。どんな肴にも合うスーパー食中酒。すばらしい😍
#石塚酒造 #姫の井 #姫の井かめぐち酒 #新潟の酒 #新潟の地酒 #柏崎の地酒 #高柳の酒 #柏崎の地酒 #日本酒

エッセイアーカイブ⑨ 英語で苦しみ、方言調査で充実

2021-07-07 10:17:56 | エッセイアーカイブ
エッセイアーカイブの9本目は、豊栄高校文芸同好会誌「凪」の第6集に書いた顧問エッセイです。おヒマな折にでもお読みください。

 英語で苦しみ、方言調査で充実

 アルバイトと音楽に明け暮れていた大学生活でしたが、いくらなんでもそればかりやっていたわけではありません。当然ながら、さまざまな講義を受けて必要な単位を取らなければ、卒業することはできません。大学生なのですから勉強するのはあったり前なことなのですが、何しろ学費も生活費もアパートの家賃もついでに飲み代も楽器代も全部自分で稼がなければならない「苦学生」だったわたしは、ともすると疲労で、特に朝一番の授業などにはなかなか出られないこともありました。
 問題はそれだけではありません。以前書いたとおり、大学受験では英語を捨てて、国語と政治経済に絞って勉強し、うまいこと合格することができましたが、そのツケは入学後に何倍にもなって返ってきたのです。わたしの所属学科は国文学科だったので、授業は全部国語とまでは言わないけれど、まあ大半が国語なのだろう、と勝手に思っていました。ところが、大学の一~二年生では「一般教養」を学ばなければなりません。そこでは、国語だけでなく、社会科や体育、場合によっては理科や数学なども受講することになります。まあ、それはいいのですが、問題なのは、英語でした。
 日本の大学はどこも、第一外国語と第二外国語を履修しなければなりません。で、第一外国語はほとんどの大学が英語なわけです。それも、N大文系学科の学生は英語Ⅰ~Ⅴを必ず修得しなければなりませんでした。つまり、英語の単位を落とすと、いつまでたっても卒業できないというわけです。
 ところが、何しろわたしは英語が超苦手。忘れもしない高校三年のとき、英語の授業で指名されて教科書の読みをやらされたのですが、「care」を「チアー」と読んでしまい、クラス中の笑いものになってしまったこともあります(もちろん「ケアー」が正解ですね)。あきれた英語の先生はそれ以来、わたしを一切指名しなくなってしまいました(列ごとに指名するのですが、わたしの前まで来ると、その次はわたしの後ろに跳ぶのです。わたしはそんな仕打ちを受けながら、「こりゃ楽だ」と思っていました。わははは)。
 そんなザマですから、大学の英語など、もちろんハナから全然わかりません。一年生の頃から、英語とついでに第二外国語のフランス語は全く単位を取れませんでした。まあ、フランス語は修得できなくても卒業には関係ないのでよいのですが(そんなことを思っているから単位が取れない)、英語は落としっぱなしにするわけにはいきません。しかしどうやってもわからないものはわからない。途方に暮れていると、大学の「ヌシ」の六年生の先輩が言いました。「英語はカネで買えるぞ」。そう。N大文理学部は、わたしのようなおバカさんたちのため、夏休みに外国語の集中補講を行なっていました。一〇日間の補講を受ければ、その単位がもらえます。そのために必要な受講料が五〇〇〇円、ということだったのです。しかも先輩が言うには、その補講は、出席さえしていればテストがダメでも単位が出る、というではありませんか。
 もちろんわたしはそれに参加しました。なけなしのバイト代をつぎ込み、眠気を我慢しながら暑い夏の教室で補講を受けました。最終日のテストはやっぱりさっぱりできませんでしたが、それでも成績表には合格の証し「C」(A、B、Cが合格で、Cはギリギリ合格というレベル)がつきました。このようにして、わたしは英語Ⅰ~Ⅴのすべてを補講でゲットしたのです。
 振り返ると、たいそうろくでもない大学生だったと思います。けれど、もちろん自分にとって必要で大切な勉強はしていました(本当です。信じて)。その一つが、方言の研究でした。
 新潟が大好きなわたしは、大学に入ったら新潟に関わる研究をしたい、と考えていました。たまたま国文学科に、国語学者で方言研究者のN教授がいらっしゃったこともあり、わたしは研究テーマに方言を選びました。大学三年の夏休みから方言調査にも出かけました。ちなみに卒業論文のタイトルは「新潟県北蒲原郡聖籠町及びその周辺地域における語彙分布についての言語地理学的考察」(長げ~)。つまり、阿賀野川右岸から中条町にかけての海岸沿いの集落を歩き、土地に長く住んでいるお年寄りの皆さんから土地の言葉について教えてもらい、それを学問的に考える、という研究をしたのです。
 この研究はフィールドワークがメインで、同じ国文学科の学生がさまざまな本を読んで研究を進めているのとは対照的でした。もちろん専門書などは読むのですが、何しろ大切なのは現場に行って話を聞くこと。長期の休みには必ず現地に入り、来る日も来る日もお年寄りを訪ね歩いて話を聞きました。飛び込みの調査ですから、緊張もしますし、いつもすんなりいくとは限りません。怪しまれ、断られることももちろんありました。豊栄のとある集落で、数十件あるすべての家から調査を拒否されたこともあります。あとで聞くと、金(ゴールドの方ね)の証券詐欺に多くの家が引っかかってしまった集落だったとのこと。悪いやつらのせいで、俺まで怪しまれるじゃないか、とその時は悔しい思いもしました。
 けれど、快く調査に応じてくださった方々のおかげで、面白い、あるいは歴史的にも古く価値のある、学術的にも大変ユニークな方言を採取することもできました。そして、充実感も得ました。それは、打ち込める何かを見つけた喜びを感じていたからだと思います。確かに体力も気も使う研究でしたが、わたしの人生にとっては、かけがえのない経験でした。その経験が、わがままでジコチュウで、どうしようもなく未熟なバカガキだったわたしを、多少なりとも成長させてくれたのではないか、という気もするのです。

【豊栄高校文芸同好会「凪」第六集 2005.3】