こつこつ働き、家庭を愛し、正義を信じ、民主主義を守る・・・・・・。「日本の正しいおじさん」たちが心の支えとしてきたモラルや常識が棄て去られてしまった現代、「おじさん」たちは何を指針に生きれば良いのか。裏表紙より。
最も信頼できる論客が、今こそ「正しいおじさん」の功績を讃え、思想体系を整備し、成熟した大人として生きるための思考方法を綴った、知的参考テキスト。
解説は平松洋子(エッセイスト)。
元の本は2002年4月。
紳士の言い逃れ系の本かと思って買ったけど、こっちは重めだった。
第一章 「おじさん」の正しい思想的態度※7月7日誤字修正。漫画化→漫画家
「普通じゃない」国日本の倫理的選択
今日の朝日新聞で漫画家の弘兼憲史が軍隊の保有を認めるように憲法を改正するべきだという議論をしていた。議論自体には何の新味もないのだが、ちょっとひっかかることころがあった。
今日→2001年10月頃
以下孫引きだけど主題だからさ・・・
「米国に協力したら日本もテロ集団に狙われる。だから協力はやめようという考え方がある。そういう考え方だけは避けるべきだ。自分の国だけが助かればいい、という発想法は卑怯である。」この否定されている発想を、著者は『「あり」である』『むしろ「正しい」』と述べる。
このロジックに「ふーんそうか」とうなずいてしまう人もいるかもしれないが、ちょっと待ってほしい。
「ゴジラが神戸に上陸」したと想定してみよう。ノ
みんなが大阪方面に二号線を走って逃げるときに、「自分だけ助かろう」と思ったが「こういうときはね、灯台もと暗しといって、ゴジラの足下が安全なんだよ」と須磨海岸のゴジラに向って突進したとする。
こういう人間は必ずいる。
そういう人間がいてもいいのである。むしろ必要なのだと私は思う(ふつうはこいつがまっさきに踏みつぶされてしまうんだけど、ゴジラだって気が変わることもある)。\(^o^)/
「自分の国だけが助かればいい、という発想は卑怯である」という弘兼の発言は、要するにみんながゴジラを避けて大阪に逃げるときに、いっしょに大阪方面に逃げないやつは卑怯だ、と言っているのと同じである。ゴジラが「おお、これは束になっていて、つぶしやすいわ」と二号線をどかどかと驀進した場合には、「仕方がない。いっしょに踏みつぶされるのが名誉ある死に方であるから、いさぎよく死のう」と弘兼は言っているのである。おお・・・
こう言われると「冗談じゃねーや」だな・・・
これを国際関係論的文脈で言い換えると、弘兼は「日本はアメリカといっしょに生き、いっしょに死ぬ」べきであり、それが国民国家としての「名誉である」と言っているのである。ふーむ・・・
もっともテロリストなんてのは「自分の都合しか考えない」からこそテロリストな訳で・・・
どんな屁理屈でいつどこ(日本を含む)に仕掛けるかわからない以上、日本と国交がある国の対テロ戦略には協力する姿勢を見せておく方が無難かなーと思う。
日本は不思議な憲法を持っており、不思議な軍隊を持っていて、その二つは不思議な「ねじれた」関係をとりむすんでいる。そして、その不思議なシステムが半世紀にわたって日本の政治的安定を支えてきた。スシやらゲイシャやらハラキリなんてのは、他国から見て「変」だから話題になったんだしね。
そのことは少しも恥ずかしいことではないし、少しも困ることではないと私は思っている。
「普通じゃない」というのが、日本の国際社会における最大の「強み」なのである。
第二章 老人国日本にむけてしかも周りに血が飛んでも気にしないから嫌われるのだよ。
「人類滅亡」という悪夢の効用
二一世紀の現在、喫煙者であることは、ほとんど犯罪者であることと同義である。うかつな相手に、喫煙の習慣があると告げると、まるで「毎日、ナイフで身体を数ヵ所ほど切り刻んで血を流さないと、どうも落ち着かないんですよ」と告白している自傷行為の常習者を見るような目つきをされることがある。
だが、喫煙を批判する人たちは人間について、いささか本質的な見落としをしているように私には思える。というのは、人間は決してつねに自分の健康を配慮して生きているわけではないからだ。自分の健康を害することの方が、自分を健康にすることよりも、本人にとって快適であるような心の動きが人間の中には存在する。
このような人間のあり方を私は「身体に悪いことをする方が、身体によいことをするよりも人間の本性にかなっている」というふうにまとめたいと思う。どうしてそんな本性が人間には備わってしまったのか、私にはうまく説明できない。説明できないけれど、そのような本性が備わっている以上、それはおそらくは私たちの「類的宿命」の一部なのであろう。誰しも破滅願望(大袈裟?)があることにはハゲドウだけど・・・
喫煙者は周りを巻き込むから嫌われることを分かれって。
以下『ドラえもん』や『核兵器』まで持ち出して喫煙を正当化。
「なるほどなー」、いや「そうだそうだ」と喫煙者は思う・・・かもしれない。
喫煙者との埋まらぬ溝を感じる話。
第三章 「説教」はおじさんの義務であり権利であるううむ・・・
押し掛けお泊まり中学生
「学校ではしつけやモラルなどについてしっかりと教えて欲しい」という言葉から子どもが読みとるのは、言葉の表面ではなく、言葉の裏にある「学校がそういう面倒くさい仕事はやれよ、こっちは忙しいんだからよ」という「なめた」態度です。別に親御さんたちは「しつけやモラル」はどうでもいいと思っているのではないでしょう。たぶん大事だということは分かっているはずです。でも、それを教えるやり方が分からないので、誰かに押し付けようとしているのです。ここには教育機関への畏敬も信頼も感じられません。そして、親が畏敬や信頼を感じていない教育機関が、その子どもを効果的に社会化することは不可能なのです。
そして「卵が先か鶏が先か」の論争へ突入する訳でありますっ/(^o^)\
第四章 「大人」になること――漱石の場合
夏目漱石の作品の考察をしながらの「大人」考察。
「坊ちゃん」しか元ネタを知らないからイマイチ入り込めなかった。
少なくない量を引用しつつなんだけど、やっぱり小説は全体の流れがわかってないと・・・
結局前提になる情報が十分ではないから、それを土台にした考察は理解し切れなかった。
重い話題多し。
でも文体のおかげかスンナリ読めなくもない・・・3章までは。
4章に関しては先に夏目漱石の作品を読んでから読むべき。
「虞美人草」・・・聞いたこともないよ/(^o^)\