真夜中の2分前

時事評論ブログ
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安保法案反対の潮流は、安部政権を追い込みつつある

2015-06-24 18:33:58 | 政治・経済
 巷では、安保反対の声はがますます高まってきている。
 学者たちだけでなく、日弁連、自民党OB、元内閣法制局長官らが相次いで安倍政権の安保法制を批判し、各地の地方自治体でも政府に慎重審議をもとめる意見書が採択されるなどの動きが広がっている。それに呼応するように、全国各地で連日一般市民による大規模な抗議活動が繰り広げられているという状況だ。
 この動きに、安倍政権は、あきらかにビビッている。
 日本全国で相次いで反対の声があがっていることで、一歩も二歩も後退せざるを得なくなっている。おそらく、これだけの反対運動が起きることを彼らは想定していなかった。この一ヶ月ほどの成り行きで、300ほどの議席を持つ政権与党が壊滅的な惨敗を喫してきたここ数回の総選挙が彼らの脳裡をかすめていることだろう。総選挙はまだだいぶ先延ばしできるとしても、来年の参院選での敗北・過半数割れでねじれ国会の再現というのはもっと現実的な脅威となる。ねじれ国会で政権がレームダック化すれば、過去の例からしてそれは衆院選惨敗・政権陥落のプレリュードだ。そういうことは、経験者である安倍・麻生の元総理(で、現総理と副総理)の二人を中心とする政権関係者こそよくわかっている。常軌を逸した強硬姿勢は、焦りの裏返しにほかならない。政府与党は先日、じつに95日間も会期を延長すると決めたが、この戦後最大の大幅延長もそのあらわれだ。この延長期間の間にさらに反対の声が強まっていけば、安保法制廃案というのも決してありえない話ではなくなってきている。
 以前辺野古への基地移転問題でも書いたが、反対の声をあげることは、決して無駄にはならない。安保法案反対の声は、いまや巨大な潮流となって現実に安倍政権を脅かしつつある。
 ここから9月末までが、勝負となる。安保法制反対派は、いっそう反対の声をあげいくことがもとめられる。また、「反対なんかしたって意味がない」と無力感を抱える人も、ここにいたっては声をあげるべきだ。ツイッターでもブログでもいい。声をあげることは、また新たな声を呼び、つながりあうことで大きな力となる。その力は、現にいま政権を怯ませている。さらにその声を大きくしていけば、悪法を撤回させる、あるいは一定程度譲歩させることも不可能ではない。

沖縄はいま

2015-06-23 17:27:37 | 沖縄
 この6月23日は、沖縄戦の終結から70年となる節目の日である。
 凄惨な地上戦からそれだけの年月が経ったわけだが、いま果たして沖縄は、その犠牲にみあうだけの償いを国から受けてきたといえるだろうか。答えは、ノーといわざるをえないだろう。
 沖縄は二度捨てられた、とよくいわれる。戦時中には本土防衛のための捨石にされ、戦後はアメリカに差し出された。そしていま、辺野古への基地移転問題で、三たび沖縄は捨てられようとしているというのが現実ではないだろうか。
 辺野古では、いまでも移設作業への激しい抵抗が続いているが、政府は反対の声にいっさい耳を貸そうとしない。菅官房長官は「粛々」という言葉を批判され封印したが、「粛々」という言葉を使わなくなったというだけで、その問答無用という態度はまったく変わっていない。

 米軍基地について「せっかくアメリカが日本を守ってくれているのに」などと主張する人もいるが、それはまったくばかげた話である。米軍は、日本を守るために基地を置いているわけではない。彼らが置きたいから置いているのである。それでいながら「日本を守るために駐留してやる」という顔をしているにすぎない。はじめは日米ともはっきりと「アメリカ軍の軍事的都合から日本に基地を置く」という認識があったが、日米安保体制が作られていく過程で「アメリカが一方的に日本を守ってやっている」というふうに話がすりかえられていった事情は、豊下楢彦氏の『安保条約の成立』(岩波新書)という本に書かれている。
 つまり、米軍が日本に基地を置いているのは、あくまでも米軍の都合であって、日本のためではない。基地を置きたいから沖縄県民がどれだけ反対しようが基地を存続させるし、いらくなったら日本側が泣いて頼んでも勝手に出て行くのである。それがアメリカという国のあり方だ。そんなものに国の安全を託すのはばかげている。

 自民党は“地方創世”をスローガンとしてかかげいるが、実際には彼らは地方に対する徹底的な差別主義者である。原発問題を考えればそれはよくわかる。地方に対する差別が根底にあるから、原発再稼動をためらわない。それと同様に、沖縄に対する差別があるから基地移設作業を粛々と進めるなどといえるのだ。
 本土でも沖縄の抵抗に対する共感がじわじわと広がってきているが、その声に政治家たちが耳を傾けてくれることを願うばかりである。

目の前にある危機――安倍政権の暴走こそ国家にとっての脅威

2015-06-22 11:27:44 | 政治・経済
 安倍政権は「安全保障環境の変化」を理由にして安保法制の必要性を説いている。安保法制の理解を得るためにビラを作っているが、そのなかには「中国は急速に軍備を増強しつつ、頻繁に尖閣諸島の日本領海に公船を侵入させています」と書いてあるという。また、安倍総理は国会答弁で、具体的な国名こそ挙げなかったものの、“周辺国”のミサイル開発のことに言及した。そのような状況があるから、安保法制が必要だというわけだ。
 このブログでは再三、“抑止力”で安全が高まることはない、むしろリスクを高めると書いてきたが、仮に彼らの主張を認めるとしても、それでもなお私は政府の安全保障法制を支持できない。その理由について書いていこうと思う。
 つまるところ、本当の“危機”とは何なのかという問題である。
 そもそも、われわれはまったく安全な世界に住むことはできない。どんな体制、どんな法律のもとでも、なんらかの危険は存在している。ゆえに、よりリスクの低いほうを選ぶしかない。そこででは、一般民衆にとって危険なものとは何なのか――ということが問題になる。
 結論を先にいってしまうと「現代の世界でもっとも深刻な危険は、国家が国民の人権を侵害することである。そしてその危険は、国家間の戦争よりもはるかに大きい」ということになる。
 いま世界をみわたしてみれば、不幸な境遇にいる人はたくさんいる。
 そのような人々は、国家と国家の戦争によって不幸なのではない。世界で苦しんでいる人の多くは、自分が住んでいる国の抑圧によって苦しんでいる。それが現実だ。本当の脅威は、周辺にある国ではなく、自国に強権的な体制が作られることなのだ。ロシアや中国や北朝鮮をみればそれはよくわかるだろう。
 こういうと、「イスラム国」はどうなんだというふうにいう人がいるかもしれないが、「イスラム国」との戦いも、厳密にいえば“国家間の戦争”ではない。ISの台頭は、国家の治安維持能力が脆弱であることに起因するものであり、その根源をたどっていくとやはり抑圧的な国家体制の問題に行き着くと私は考えている(※)。
 いまの世界では、武力によって人が死傷しているのも、ほとんどの場合――というか、ほぼ100%――国家と国家の戦争ではない。たとえばウクライナにしても、シリアにしても、基本的には国内の反政府勢力が争乱を起こしていえるのであり、国内の治安機関が脆弱であることが問題なのだ。そう考えると、国家間の戦争というのはある意味で非現実的なのである。
 もちろん、その危険がないとはいわない。たとえ可能性は低くとも、ありうるのかもしれない。だが、問題なのは何がより危険なのかということである。国家間の戦争は、現代の世界ではほとんど起きていない。それに対して、強権的な国家が国民を抑圧するということはあちこちの国で起きている。その傾向は、ますます強まっているようにも見える。
 そこではじめの問いに戻るが、比較の問題として考えたときには、中国や北朝鮮の脅威よりもむしろ、日本人は日本が強権的・抑圧的な国家に変貌していくことをおそれるべきなのである。現実の世界を見たときには、そちらのほうがはるかに民衆を苦しめているからだ。
 そのようにみたとき、安倍政権の政治手法はきわめて危険である。最近の安倍総理は、もはや論理の破綻を取り繕うことができずに、憲法は時の政権が自由に解釈していいというようなことを言い出している。これを許せば、国家はいくらでも憲法をないがしろしにしていくだろう。自民党議員の日ごろの発言や自民党の憲法草案などをみれば、彼らが国民の人権や自由を制限したがっているのはよくわかる。自民党の暴走を許すことは、抑圧的な体制に道を開くことになるのだ。そしてそのことのほうが、中国の公船や北朝鮮のミサイルよりもはるかに脅威なのである。
 結論。中国も危険かもしれない。北朝鮮も危険かもしれない。だが、安倍政権のような狂信的集団にフリーハンドを与えることのほうがもっと危険だ。われわれは、本当の危険を見極め、それを防ぐための方策を考えるなければならない。


※抑圧的な国家は、権力維持のために治安機関を私兵化し、ときには自国民に銃をむけることも辞さない。そうした姿勢は国民の反発を招き、それが反体制勢力の勢力拡大を許す。国民のなかに、政府に抵抗する武装勢力に味方したり、その一員になったりする者が出てきて、結果として、長期的には治安を脆弱化させることになる。その証拠に、内戦で苦しんでいる国の多くは、腐敗した体制を持つ、あるいは過去に持っていた国である。イラクやアフガンは、そのもっとも典型的な例といっていいだろう。

頭の悪い政治家が国家を傾かせる――安倍政権と米ブッシュJr政権の共通点

2015-06-21 19:19:53 | 政治・経済
 最近、安倍晋三という人が誰かに似ていると思うようになった。
 といっても、よく指摘されるようにドイツのあの人ではない(たしかに似ているけれど)。いったい誰に似ているのかと考えているうちに、やっとわかった。
 アメリカの前大統領ブッシュJrである。
 “戦争法案”成立にまい進する安倍政権の姿は、イラク戦争を引き起こしたあの悪名高きブッシュJr政権の姿に重なってみえる。
 ブッシュJr時代のアメリカは、イラク攻撃にむけて突進し、そのために国連安保理のお墨付きを得ようとしたが、どうやら国連決議が得られそうにないとみると、今度は湾岸戦争時代の国連決議を持ち出してきて、これによって攻撃は正当化されると主張した。国連決議1441違反によって、国連決議687(湾岸戦争停戦決議)は失効し、それ以前にイラク攻撃を認めた国連決議678(湾岸戦争のきっかけとなった決議)が復活し、イラク攻撃は正当化される――という理屈である。国際法の専門家のほとんどがそれは無理があると批判したが、ブッシュ政権はその批判の声に耳を貸さなかった。自分を支持する国を「新しいヨーロッパ」、反対する国を「古いヨーロッパ」と呼び、反対意見を完全に無視した。この暴走を、政権内の人間は止めるどころか無茶苦茶な屁理屈を展開して擁護し、イラク戦争に突っ走った。その帰結が、ISの台頭で内戦状態に陥ったいまのイラクである。いまのイラクをみれば、フセイン時代のほうがまだましだろう。結局のところイラク戦争は、イラクという崩壊国家を作り出し、周辺地域を不安定化させ、さらにはアメリカの国際的な地位も低下させただけだった。
 この例でわかるとおり、アホな政権のやることは、無惨な結果しか生まない。
 それも当然である。法が権力を縛っているのは、権力が恣意的に行使されることで一般民衆が不幸に陥るのを防ぐためだ。なんだかんだいって、法制度というのは、長い時間をかけ、歴史の教訓を踏まえて、愚かな政府が愚かな行動を起こそうとしたらブレーキがかかるように作られてきている。それを無視すれば、悪い結果になるのは当然なのだ。
 ここまで書いてくれば、安倍総理とブッシュJrアメリカ前大統領の類似点は誰の目にもあきらかだろう。
 ブッシュJrは、父親のことに関する私的な感情からイラク攻撃に執念を燃やした。いっぽう安倍総理は祖父(岸信介)に対する私的な感情から安保法制に固執している。ブッシュJrは十年以上前の国連決議を持ち出し、安倍総理は数十年前の最高裁判決を持ち出してきて、自分に都合のいいようにねじ曲げて利用している。その強引な解釈を、ブッシュJrは国際法の専門家たちから、安倍総理は憲法学の専門家から、批判された……まったく瓜二つである。こうなったら結果も似たようなものになるだろうと想像される。
 繰り返しになるが、国連の枠組みも、憲法も、権力の恣意的な暴走を防ぐために工夫されてきたものだ。無茶苦茶な戦争を起こそうとするものが出てきたら、その網にひっかかり、制止するようにできている。国際法学者や憲法学者たちの批判というのは、その制止が具体的に形をとってあらわれたものである。その網を引きちぎって暴走していけば、不幸な結果を招くのは当然だ。このまま安倍政権の傲慢を許せば、ブッシュJrがアメリカにもたらしたのと同じ災禍をこの国にもたらすのは自明である。

続・安倍政権妄言録

2015-06-20 21:10:40 | 政治・経済
高村正彦自民党副総裁「学者は憲法尊重義務を課せられていない」
 かつて「集団的自衛権は容認されない」と答弁していたこともあきらかになり、ますます追い詰められた高村氏。自民党本部で記者団に対して語るなかで出てきたのがこの言葉だ。
 最近では、この人のいうことは論理が完全に破綻していてもはや支離滅裂で何をいいたいのかはっきりしない。なので、公正を期すために、朝日新聞電子版で報じられた発言をそのまま引用しておく。

 「最高裁の判決が、個別事件について示されたものだという憲法学者らの指摘はその通りだ。ただ、司法審査は個別事件についてやるものだということと、最高裁がそこに示した一般的法理を尊重するかしないかは別の話で、我々憲法尊重擁護義務を課せられた政治家が、一般的法理を尊重しなければいけないのは、ごくごく当たり前のことだ。 最高裁は「国の存立を全うするための必要な自衛の措置は講じうる」と一般的法理で示している。「国の存立を全うするための必要な自衛の措置」は政治家が考えなければいけないことだ。「必要な自衛の措置」の中に、国際法的には集団的自衛権とみられるものが含まれるのであれば、その限りで集団的自衛権も容認される、と当たり前のことを当たり前に素直に言っているだけだ。 学者は憲法尊重擁護義務を課せられてはいない。学問の自由があるから、最高裁が示した法理でも「それが間違っている」と言うこともできる。我々憲法尊重擁護義務がある人間は、最高裁が示した一般的法理を尊重する、という、単純な、当たり前のことを言っている。」

 私なりに解釈すると、どうやら「俺たちの意見こそ正しくて、憲法学者たちは間違っている。あいつらは間違ったことをいっているが、学者には憲法尊重義務がないし、学問の自由もあることだから、間違えるのも仕方がないんでまあ大目に見てやろう」というようなことをいいたいらしい。
 よくもまあ、いったものである。
 強弁もここまでくるほとんど狂気じみているというのが率直な感想だ。まるで、口げんかに負けて負け惜しみをいう小学生のような物言いだが、脳ミソが沸騰した高村氏は、こういうことをいえばいうほど国民をドン引きさせるだけだということにももはや気づくことができなくなっているのだろう。こうやって知能レベルの低さを示す発言を繰り返してせっせと墓穴を掘ってくれるのだから、安保法制反対派にとってはむしろありがたい存在といえるのかもしれない。
 それにしても、いやしくも政権与党の副総裁という立場にある人物のこの子どもじみた言い草はどうだろう。自尊心が異常に肥大化したあわれな道化といったところか。こんなふうにはなりたくないものである。

細田博之自民党幹事長代行「言語に惑わされて非論理的な議論をしてはならない」
 派閥の会合での発言。
 細田氏によれば、言語に惑わされて非論理的な議論をしてはならないのは「論理学と法哲学で当然の帰結」だが、日本ではそれがあいまいで情緒的な議論が行われやすく、そのせいで不毛な議論が展開されているというのである。
 自分たちで論理性もなにも無視した無茶苦茶な暴論を展開しておきながらのこの発言には、あいた口がふさがらない。どうやら彼らは、法哲学も論理学も自分たちが定義できると思っているらしい。自分たちでそう思い込むのは勝手だが、それが世間に通用すると考えているところが愚かで、高村氏と同様、その道化っぷりには失笑を禁じえない。
 幼児的全能感から脱却できないみっともない大人たちが、論理性も法哲学も無視して「俺たちが正しい」、「俺たちにひれ伏せ」と情緒的にわめきたてている、というのがいまの自民党の姿である。
 彼らは「憲法と法律の関係について中学生レベルの知識さえない」とよく批判されるが、実際のところその幼稚さは中学生というレベルにもほど遠い。安倍総理とそのお友だち一派は、そろって小学校からやりなおしたほうがいい。