1月13日。火曜日。
快晴でも寒いのは、なぜ?
極寒の始まりか。
明朝の凍てつく寒さを想像するだけで絶句する。
まだカラダのリズムを掴めないでいる。
4時起きは先週から体慣らしで試していたが、
緊張のためか、2度も3度も跳ね起き、眠りが浅い。
20時を回ると朝のことが気になり、カラダがこわばる。
…なにをしているのだろう。
●
「独座大雄峰」
これまた禅語の言葉だ。
雄大な山の峰にて われひとり
吹き上げる風と大気を味わう。
その静けさの中、その光の透明な清々しさに
ひとり座する。
何事にも左右されぬ自分の居場所を
自分の心に見いだした時、湧き上がる自由の境地。
響きあう心が気高いモノと同調した時に達する神域。
自身の中にそれと呼応する内なるモノが、きっとある。
年末年始は、樹氷で名高い山形蔵王で年を越した。
樹氷こそまだカタチになってはいなかったが、
山頂の地蔵岳は見渡す限り、白銀の新世界。
西に傾く太陽を正面に、フリーズしそうな氷点下の大気の中で、
その雄大な山々と、風雪にさらされ白く肥えた樹々の屹立する姿を見ていると、
「響きあう心が気高いモノと同調した時に達する神域」というものが、
なんとなくだが、己の心に訪れたような気がした。
…しかし、それは予兆でしかなかった。
●
東京都写真美術館で石田尚志の「フーガの技法」を見た。
「石田尚志とアブストラクト・アニメーションの源流」展
2001年のモノクロ映像作品。
1秒24コマの1枚1枚を手書きで仕上げ、
1コマ1コマをフィルム撮影する21分のショートムービー。
Bachの「フーガの技法」の音符の連なりに合わせて、
投影された光のフレームが二重三重に交錯し、
微に入り細に入る構造音楽の結晶が無機質に再現されたかと思うと、
その秩序を擾乱するかのように、
作家独特の「言葉にならない」情念的、観念的、有機的フォルムが、
ウジ虫の発生する腐乱した肢体よろしく、顫動を繰り返し、やがて大きなうねりとなって
理性で統御された世界を錯乱に追い込む。
しかし、そのような「蠢き」を予知していたかのように
新たな秩序が光のフレームを超えた(人知を超えた)座標軸から顕れ、
その情念的フォルムをもひとつの秩序のごとく呑み込み、
最後は光の十字架が神々しく聳立する。
…、…、…。
ものごっつい映像体験だった。
これこそまさに「独座大雄峰」ではなかったか。
「響きあう心が気高いモノと同調した時に達する神域」
宇宙だ、コスモスだ、神だ。
すべてを凌駕し、聳え立つ十字架の、なんという救い。
このカタルシスが、音と映像で大いなる増幅を繰り返し、
脳内の襞という襞に「思考停止」を強要する。…強制終了…「シャットダウン」だ。
●
寝不足からか、思考がショートしている。
こちらも…「シャットダウン」…。
続きは明朝以後。
快晴でも寒いのは、なぜ?
極寒の始まりか。
明朝の凍てつく寒さを想像するだけで絶句する。
まだカラダのリズムを掴めないでいる。
4時起きは先週から体慣らしで試していたが、
緊張のためか、2度も3度も跳ね起き、眠りが浅い。
20時を回ると朝のことが気になり、カラダがこわばる。
…なにをしているのだろう。
●
「独座大雄峰」
これまた禅語の言葉だ。
雄大な山の峰にて われひとり
吹き上げる風と大気を味わう。
その静けさの中、その光の透明な清々しさに
ひとり座する。
何事にも左右されぬ自分の居場所を
自分の心に見いだした時、湧き上がる自由の境地。
響きあう心が気高いモノと同調した時に達する神域。
自身の中にそれと呼応する内なるモノが、きっとある。
年末年始は、樹氷で名高い山形蔵王で年を越した。
樹氷こそまだカタチになってはいなかったが、
山頂の地蔵岳は見渡す限り、白銀の新世界。
西に傾く太陽を正面に、フリーズしそうな氷点下の大気の中で、
その雄大な山々と、風雪にさらされ白く肥えた樹々の屹立する姿を見ていると、
「響きあう心が気高いモノと同調した時に達する神域」というものが、
なんとなくだが、己の心に訪れたような気がした。
…しかし、それは予兆でしかなかった。
●
東京都写真美術館で石田尚志の「フーガの技法」を見た。
「石田尚志とアブストラクト・アニメーションの源流」展
2001年のモノクロ映像作品。
1秒24コマの1枚1枚を手書きで仕上げ、
1コマ1コマをフィルム撮影する21分のショートムービー。
Bachの「フーガの技法」の音符の連なりに合わせて、
投影された光のフレームが二重三重に交錯し、
微に入り細に入る構造音楽の結晶が無機質に再現されたかと思うと、
その秩序を擾乱するかのように、
作家独特の「言葉にならない」情念的、観念的、有機的フォルムが、
ウジ虫の発生する腐乱した肢体よろしく、顫動を繰り返し、やがて大きなうねりとなって
理性で統御された世界を錯乱に追い込む。
しかし、そのような「蠢き」を予知していたかのように
新たな秩序が光のフレームを超えた(人知を超えた)座標軸から顕れ、
その情念的フォルムをもひとつの秩序のごとく呑み込み、
最後は光の十字架が神々しく聳立する。
…、…、…。
ものごっつい映像体験だった。
これこそまさに「独座大雄峰」ではなかったか。
「響きあう心が気高いモノと同調した時に達する神域」
宇宙だ、コスモスだ、神だ。
すべてを凌駕し、聳え立つ十字架の、なんという救い。
このカタルシスが、音と映像で大いなる増幅を繰り返し、
脳内の襞という襞に「思考停止」を強要する。…強制終了…「シャットダウン」だ。
●
寝不足からか、思考がショートしている。
こちらも…「シャットダウン」…。
続きは明朝以後。