「大野一雄について」@BankART Studio NYK
作・演出・出演/川口隆夫
ドラマトゥルグ/飯名尚人
【on_Flickr】0209_Takao
「自分の本当の姿を見たことがないのが、人間でしょう。他人の顔は見えますが、自分の顔を見た人はいません。
ダンサーというのは自分の本当の姿、カラダを見たことのないものが、人の前で動いてみせるという芸当をやってのけるのです。
分かって踊っているのではなく、『分からないから』踊っているのです。また観客は、それを承知の上で見てくれるのです。
そしてダンサーにとって見ることができないのは、カラダだけではなく、
そのカラダを通して創り出している『動き』と『形』も見えないのです。
こんな訳の分からないもので人様の前に『立つ』方法と言えば、『想う』ことしかありません。
私のカラダは『皆既日食のように光っている闇であり、花のように軽やかな岩塊で、空気のようにやわらかいダイヤモンド』、
そのように『想う』ことができる限り、舞台に立とうとします。
さもなければ、禁欲的に一切『想う』ことを排除するか、そのどちらかでしょう」
笠井叡さんが自著「カラダという書物」の中で大野一雄さんのダンスについて語った言葉。
大野さんが舞台上でどれだけの「想い」を傾け、成り切っているのか…に気付かされたと言います。
そこに客観は入り込む余地などないのだ…と。
隆夫さんもまた、
「せめて鋳型に鉄を流し込むようにその踊りの中に自分を流し込むことによって、
いくらかなりともその<劇薬>に舌を痺れさすことができれば」という「想い」だけで踊っていると。
忠実に重ねよう寄せようと想えば想うほど、弾かれた自分が舞台上に出現してしまう…とも。
こないだ1991年のNHKで放送された大野一雄さんの「花鳥風月」の舞台を観ました。
そこで踊っている大野さんの姿もまた、自身の「想い」に重ねよう寄せようと大きなカラダを奮わせ、弾かれている姿でした。
この集中力の先にこそ、「自分の本当の姿を見たことのない」ダンサーの真髄が現れているのだ…と思います。
隆夫さんが大野さんとなって喝采を浴びてアンコールに応える姿は、まさしく幻影のようでした。
作・演出・出演/川口隆夫
ドラマトゥルグ/飯名尚人
【on_Flickr】0209_Takao
「自分の本当の姿を見たことがないのが、人間でしょう。他人の顔は見えますが、自分の顔を見た人はいません。
ダンサーというのは自分の本当の姿、カラダを見たことのないものが、人の前で動いてみせるという芸当をやってのけるのです。
分かって踊っているのではなく、『分からないから』踊っているのです。また観客は、それを承知の上で見てくれるのです。
そしてダンサーにとって見ることができないのは、カラダだけではなく、
そのカラダを通して創り出している『動き』と『形』も見えないのです。
こんな訳の分からないもので人様の前に『立つ』方法と言えば、『想う』ことしかありません。
私のカラダは『皆既日食のように光っている闇であり、花のように軽やかな岩塊で、空気のようにやわらかいダイヤモンド』、
そのように『想う』ことができる限り、舞台に立とうとします。
さもなければ、禁欲的に一切『想う』ことを排除するか、そのどちらかでしょう」
笠井叡さんが自著「カラダという書物」の中で大野一雄さんのダンスについて語った言葉。
大野さんが舞台上でどれだけの「想い」を傾け、成り切っているのか…に気付かされたと言います。
そこに客観は入り込む余地などないのだ…と。
隆夫さんもまた、
「せめて鋳型に鉄を流し込むようにその踊りの中に自分を流し込むことによって、
いくらかなりともその<劇薬>に舌を痺れさすことができれば」という「想い」だけで踊っていると。
忠実に重ねよう寄せようと想えば想うほど、弾かれた自分が舞台上に出現してしまう…とも。
こないだ1991年のNHKで放送された大野一雄さんの「花鳥風月」の舞台を観ました。
そこで踊っている大野さんの姿もまた、自身の「想い」に重ねよう寄せようと大きなカラダを奮わせ、弾かれている姿でした。
この集中力の先にこそ、「自分の本当の姿を見たことのない」ダンサーの真髄が現れているのだ…と思います。
隆夫さんが大野さんとなって喝采を浴びてアンコールに応える姿は、まさしく幻影のようでした。