宇宙においてはすべてのものが、どんなに取るに足りないものであっても、
それ自身「存在することの根拠」があります。石一個と言えどもそこには存在する目的があります。
科学はこの「物質の中に内在する目的や根拠」に、けっして関わることができません。
北極のオーロラ現象を、科学はその原因について解明することはできますが、
オーロラが輝いていることの「目的」は?という問いを立てることができません。
科学は「目的」の前では沈黙せざるを得ません。
しかし、意識が一つの対象に向かいますと、意識は自由にオーロラが存在する根拠、
花々が咲き誇っていることの根拠を、あるいは目的をそこに生み出すことができます。
意識にとって、「花は花ではなく、花以外の何か」なのです。
意識は花という同一性をいともたやすく超えていきます。
意識は、花の中に内在する目的性を、花の前に提示するのです。
この「AはAではない」という意識の働きが、もし存在しないとするならば、
宇宙にあるすべてのものは自己同一性の中に封印されたままです。
「私は私ではない」という自己否定の力は、私が私から離れて客体に変化していくのです。
反対に、水晶の結晶体を前にして、「この水晶は私のカラダの一部分である」と意識が語ると、
この結晶体という客体は主体の一部に変わるのです。
意識は、主体と客体を自由に入れ替えながら、事物に内在する存在の根拠と目的を事物の目に置くのです。
それは、事物の封印状態を自由に解放する力なのです。
これこそファンタジーの根源であり、芸術創造の根源です。
まさに意識は、すべてのものの同一性を超えて事物を新たに根拠づけながら、
宇宙全体を一個の新しい芸術作品に変えていくのです。
(中略)
有形の存在である人間が、無形となると天となり
無形の存在である天が、有形となると人になる
この言葉は明治の神道家、堀天龍斎という人が述べた言葉ですが、
素材や生命という「有形のもの」は、意識が働くとともに無形となって自由な存在となり、
同一性を超えて宇宙にはばたくことができます。社会的にはまったく無能な人間であろうと、
同一性を破壊する意識の力が働くときには、かけがえのない一人の自由な存在に生まれ変わります。
それが意識の根本的な力です。意識は宇宙に属する力です。
(笠井叡著「カラダという書物」より)
笠井叡さん演出の「今晩は荒れ模様」が本日初日を迎えた。
1月の天使館での個別稽古から追ってきた作品だったので、昨日のゲネプロは無我夢中でシャッターを切った感があったのだけど、
今日は2階席から俯瞰で眺めてみて、笠井さんが全身全霊でこの作品に込めた思いが直に伝わってきて、目頭が熱くなった。
上に引用したのは、笠井さんの「意識」についての叙述だが、
「今晩は荒れ模様」において主題となっているのは、この「意識」の自明化ではないだろうか?
戦争とは、過去の男性文化の最も醜悪な遺物です。
これを乗り越え、歴史に新しい地平を拓くのは、
すべての文化、民族をつなぐことのできる女性の生命的な力であると、私は確信しています。
(「今晩は荒れ模様」前書きより抜粋)
「AはAではない」という意識の働きが、もし存在しないとするならば、宇宙にあるすべてのものは自己同一性の中に封印されたまま。
「私は私ではない」という自己否定の力は、私が私から離れて客体に変化していくのである…と。
そのような客体化の作業に長けているのが、実は女性のほうなのではないか。
自己同一性を超えて有形から無形へと意識を羽ばたかせ、自由な存在になり得るのは、女性なのではないか…と。
それは何故か。女性のほうが、己のカラダを客体化出来ているからなのだと、ボクは思うのだ。
その客体化への意識ひとつで、これからの未来は好転していく、拓かれていく…という笠井さんのメッセージ。
御年72歳というカラダでもって自らその「意識」を舞台上に見える化し、切迫した問いを投げかけた笠井さん。
この問いかけに対して、わたしたちが自明化できるか否かが、今後の行く末を左右する。
「己の意識を自明化せよ」
そんな声が胸に突き刺さる渾身の作品であった。深く関わることが出来て、本当に感謝します。
それ自身「存在することの根拠」があります。石一個と言えどもそこには存在する目的があります。
科学はこの「物質の中に内在する目的や根拠」に、けっして関わることができません。
北極のオーロラ現象を、科学はその原因について解明することはできますが、
オーロラが輝いていることの「目的」は?という問いを立てることができません。
科学は「目的」の前では沈黙せざるを得ません。
しかし、意識が一つの対象に向かいますと、意識は自由にオーロラが存在する根拠、
花々が咲き誇っていることの根拠を、あるいは目的をそこに生み出すことができます。
意識にとって、「花は花ではなく、花以外の何か」なのです。
意識は花という同一性をいともたやすく超えていきます。
意識は、花の中に内在する目的性を、花の前に提示するのです。
この「AはAではない」という意識の働きが、もし存在しないとするならば、
宇宙にあるすべてのものは自己同一性の中に封印されたままです。
「私は私ではない」という自己否定の力は、私が私から離れて客体に変化していくのです。
反対に、水晶の結晶体を前にして、「この水晶は私のカラダの一部分である」と意識が語ると、
この結晶体という客体は主体の一部に変わるのです。
意識は、主体と客体を自由に入れ替えながら、事物に内在する存在の根拠と目的を事物の目に置くのです。
それは、事物の封印状態を自由に解放する力なのです。
これこそファンタジーの根源であり、芸術創造の根源です。
まさに意識は、すべてのものの同一性を超えて事物を新たに根拠づけながら、
宇宙全体を一個の新しい芸術作品に変えていくのです。
(中略)
有形の存在である人間が、無形となると天となり
無形の存在である天が、有形となると人になる
この言葉は明治の神道家、堀天龍斎という人が述べた言葉ですが、
素材や生命という「有形のもの」は、意識が働くとともに無形となって自由な存在となり、
同一性を超えて宇宙にはばたくことができます。社会的にはまったく無能な人間であろうと、
同一性を破壊する意識の力が働くときには、かけがえのない一人の自由な存在に生まれ変わります。
それが意識の根本的な力です。意識は宇宙に属する力です。
(笠井叡著「カラダという書物」より)
笠井叡さん演出の「今晩は荒れ模様」が本日初日を迎えた。
1月の天使館での個別稽古から追ってきた作品だったので、昨日のゲネプロは無我夢中でシャッターを切った感があったのだけど、
今日は2階席から俯瞰で眺めてみて、笠井さんが全身全霊でこの作品に込めた思いが直に伝わってきて、目頭が熱くなった。
上に引用したのは、笠井さんの「意識」についての叙述だが、
「今晩は荒れ模様」において主題となっているのは、この「意識」の自明化ではないだろうか?
戦争とは、過去の男性文化の最も醜悪な遺物です。
これを乗り越え、歴史に新しい地平を拓くのは、
すべての文化、民族をつなぐことのできる女性の生命的な力であると、私は確信しています。
(「今晩は荒れ模様」前書きより抜粋)
「AはAではない」という意識の働きが、もし存在しないとするならば、宇宙にあるすべてのものは自己同一性の中に封印されたまま。
「私は私ではない」という自己否定の力は、私が私から離れて客体に変化していくのである…と。
そのような客体化の作業に長けているのが、実は女性のほうなのではないか。
自己同一性を超えて有形から無形へと意識を羽ばたかせ、自由な存在になり得るのは、女性なのではないか…と。
それは何故か。女性のほうが、己のカラダを客体化出来ているからなのだと、ボクは思うのだ。
その客体化への意識ひとつで、これからの未来は好転していく、拓かれていく…という笠井さんのメッセージ。
御年72歳というカラダでもって自らその「意識」を舞台上に見える化し、切迫した問いを投げかけた笠井さん。
この問いかけに対して、わたしたちが自明化できるか否かが、今後の行く末を左右する。
「己の意識を自明化せよ」
そんな声が胸に突き刺さる渾身の作品であった。深く関わることが出来て、本当に感謝します。