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ボクにとって作家「池澤夏樹」は、とても特別な存在である。
彼が第98回芥川賞を「スティル・ライフ」で獲った時、
ボクは彼の存在を知った。
そして、彼が作家「福永武彦」の息子であることを知って
ボクは「福永武彦」に傾倒していった。
「忘却の河」や「死の島」の内省的な物語に
当時のボクは胸が締め付けられた。
…だから、「池澤夏樹」を語るときには必ず「福永武彦」が背後にあった。
そんな彼が1994年、沖縄に移住したことを契機に
ボクにとっての「池澤夏樹」は大きくなっていった。
1998年、後を追うようにボクは沖縄に移住する。
写真家の「垂見健吾」氏と懇意になる機会があり、
「池澤夏樹」が近くなった気がした。
2003年、CINEMAdubMONKSのヨーロッパツアーで
ベルリンを訪ねた際、ギャラリー前で「池澤夏樹」とすれ違った。
はじめは何のことか合点がいかず、ただ後ろ姿を見つめるだけだったが、
「池澤夏樹」であることを確信して、すぐさま追いかけた。
そのときは胸の動悸が収まらず、結局、話しかけることができなかった。
2004年、彼が沖縄を離れると決心した最後の夏。
久茂地の書店で行われたサイン会に、ボクは意を決して出かけた。
握手を交わす際、CINEMAdubMONKSのCDを手渡し、
ベルリンでの出来事を話した。
池澤氏はそのとき、「フランスに持って行きます」と応えてくれた。
●
今、あらためてこの作家の思想をなぞってみると、
深い深い自省の念にかられてしまう。
彼が何を憂い、沖縄を後にしていったのか…。
…最後の握手や、「…フランスへ…」という言葉のニュアンスから
この作家の思いが、このボクの血潮に脈打ってはいなかったか?
●
日本の社会は、同じ文化の出身で、同じ言葉をしゃべって、ほぼ同じような肌の色をしていて、
しかもみんな流行で同じようなものを持っている人たちの集まりだから、互いに衝突することがない。
必死で衝突や意見の違いを回避しようとしていますね。お互いに両隣を見て横並びして目立たなくすることで、
言葉を使う機会をなるべく消そうとしてさえいる。
でも、それは何でしょうね。見知らぬ同士がこれほどまで口をきくことのできない社会、話のできない社会。
知っている人同士でも、隣の席同士でも、直接話すのが恥ずかしいから携帯のメールでやりとりするというこの社会は。
(中略)
ただ、今の日本のこのあまりに急速な変化を見ていると、一人ずつがものを考えていない、
考えることを禁じるような空気がある。この国はどこへ行ってしまうんだろうと不安になりますね。
そういう思いもまた、ぼくがもう若くないからかもしれない。戦後とともに育ってきて、今年で六十二歳ですから。
(Coyote「若い日本、老いたヨーロッパ?」抜粋)
●
毎日をケータイとPC環境の中で過ごし、生業としてケータイの広告や企画を考え、
自己発信と称してblogやSNSに手を伸ばし、ヴァーチャルな交流に嬉々としている。
日本の社会が、日本人の指向が、若さやスピードを尊ぶひとつの枠組みの中では、
ボクやあなたの生活スタイルは、多かれ少なかれ、その枠組みを外すことはできない…と思う。
かつて、その枠組みに深い疑念を抱き、精神的な均衡さえ崩してしまった友人が、
自国脱出の名目でエジプト・カイロへと旅に出た時、送られてきた絵ハガキには…
「スフィンクスやピラミッドの悠久の時を感じながら、日本を顧みると、
わたしはたまたま日本の枠組みが合わなかっただけなんだ…という事実に当たりました。」
と書かれていた。
「池澤夏樹」の幻影を追いかけて、沖縄に来た自分を振り返ってみると、
ボクはいつもこの友人の言葉を、胸に刻んで生きてきた事実にぶち当たるのだ。
東京でのアシスタント生活から、逃げるように仙台へ移り、さらに沖縄へ。
日本的尺度で考えれば、これらの行為は完全な「逃げ」であった…だろう。
しかしその根底には、多くの現代人が感じている「異和感」があるんじゃないか?
「違和感」…ちぐはぐな感じ。(広辞苑)
…ではなく、「異和感」…異なる感じ。
毎日を生活しながらも、これが正解?と感じながら生きているところは、
現代の若者がNEETやFreeterとなって、社会から逸脱しつつ、生活していることに通じないか?
おそらく、何かしらの受け皿が、長きに渡り失われたままなのだ。
11月、ボクは旅に出る。日本の枠組みを考える、良い機会だと思う。
Coyote No.14 : 池澤夏樹「帰りそびれた旅行者」
彼が第98回芥川賞を「スティル・ライフ」で獲った時、
ボクは彼の存在を知った。
そして、彼が作家「福永武彦」の息子であることを知って
ボクは「福永武彦」に傾倒していった。
「忘却の河」や「死の島」の内省的な物語に
当時のボクは胸が締め付けられた。
…だから、「池澤夏樹」を語るときには必ず「福永武彦」が背後にあった。
そんな彼が1994年、沖縄に移住したことを契機に
ボクにとっての「池澤夏樹」は大きくなっていった。
1998年、後を追うようにボクは沖縄に移住する。
写真家の「垂見健吾」氏と懇意になる機会があり、
「池澤夏樹」が近くなった気がした。
2003年、CINEMAdubMONKSのヨーロッパツアーで
ベルリンを訪ねた際、ギャラリー前で「池澤夏樹」とすれ違った。
はじめは何のことか合点がいかず、ただ後ろ姿を見つめるだけだったが、
「池澤夏樹」であることを確信して、すぐさま追いかけた。
そのときは胸の動悸が収まらず、結局、話しかけることができなかった。
2004年、彼が沖縄を離れると決心した最後の夏。
久茂地の書店で行われたサイン会に、ボクは意を決して出かけた。
握手を交わす際、CINEMAdubMONKSのCDを手渡し、
ベルリンでの出来事を話した。
池澤氏はそのとき、「フランスに持って行きます」と応えてくれた。
●
今、あらためてこの作家の思想をなぞってみると、
深い深い自省の念にかられてしまう。
彼が何を憂い、沖縄を後にしていったのか…。
…最後の握手や、「…フランスへ…」という言葉のニュアンスから
この作家の思いが、このボクの血潮に脈打ってはいなかったか?
●
日本の社会は、同じ文化の出身で、同じ言葉をしゃべって、ほぼ同じような肌の色をしていて、
しかもみんな流行で同じようなものを持っている人たちの集まりだから、互いに衝突することがない。
必死で衝突や意見の違いを回避しようとしていますね。お互いに両隣を見て横並びして目立たなくすることで、
言葉を使う機会をなるべく消そうとしてさえいる。
でも、それは何でしょうね。見知らぬ同士がこれほどまで口をきくことのできない社会、話のできない社会。
知っている人同士でも、隣の席同士でも、直接話すのが恥ずかしいから携帯のメールでやりとりするというこの社会は。
(中略)
ただ、今の日本のこのあまりに急速な変化を見ていると、一人ずつがものを考えていない、
考えることを禁じるような空気がある。この国はどこへ行ってしまうんだろうと不安になりますね。
そういう思いもまた、ぼくがもう若くないからかもしれない。戦後とともに育ってきて、今年で六十二歳ですから。
(Coyote「若い日本、老いたヨーロッパ?」抜粋)
●
毎日をケータイとPC環境の中で過ごし、生業としてケータイの広告や企画を考え、
自己発信と称してblogやSNSに手を伸ばし、ヴァーチャルな交流に嬉々としている。
日本の社会が、日本人の指向が、若さやスピードを尊ぶひとつの枠組みの中では、
ボクやあなたの生活スタイルは、多かれ少なかれ、その枠組みを外すことはできない…と思う。
かつて、その枠組みに深い疑念を抱き、精神的な均衡さえ崩してしまった友人が、
自国脱出の名目でエジプト・カイロへと旅に出た時、送られてきた絵ハガキには…
「スフィンクスやピラミッドの悠久の時を感じながら、日本を顧みると、
わたしはたまたま日本の枠組みが合わなかっただけなんだ…という事実に当たりました。」
と書かれていた。
「池澤夏樹」の幻影を追いかけて、沖縄に来た自分を振り返ってみると、
ボクはいつもこの友人の言葉を、胸に刻んで生きてきた事実にぶち当たるのだ。
東京でのアシスタント生活から、逃げるように仙台へ移り、さらに沖縄へ。
日本的尺度で考えれば、これらの行為は完全な「逃げ」であった…だろう。
しかしその根底には、多くの現代人が感じている「異和感」があるんじゃないか?
「違和感」…ちぐはぐな感じ。(広辞苑)
…ではなく、「異和感」…異なる感じ。
毎日を生活しながらも、これが正解?と感じながら生きているところは、
現代の若者がNEETやFreeterとなって、社会から逸脱しつつ、生活していることに通じないか?
おそらく、何かしらの受け皿が、長きに渡り失われたままなのだ。
11月、ボクは旅に出る。日本の枠組みを考える、良い機会だと思う。
Coyote No.14 : 池澤夏樹「帰りそびれた旅行者」
どちらへ行かれるのか。
写真、楽しみにしています。