写真はダンサー高原伸子とのPhoto_Session より、
【on_Flickr】DANCER_07
民主制は、少数者が多数者に服従することと同じではない。
民主制は、少数者の多数者への服従を認める国家、すなわち、
ある階級が他の階級に対して、住民の一部分が他の住民に対して、
系統的に暴力を行使するための組織なのである。
ここでレーニンはデモクラシー・民主制を定義しようとしているわけだが、
この言い換えは大変興味深いものである。
一番目の文章では、民主制は「服従」ではないと言われている。
つまり、言い換えれば、民主制とは少数者が多数者に対して服従するという
「決まりごと」、あるいはそのような「原則」や「主義」ではない…ということだ。
二番目の文章で言われているのは、民主制とはそのようなものではなく、
「制度」や「機構」であり、もっと端的に言えば、「国家」や暴力行使のための「組織」である…ということである。
要するに、民主制とは「観念」ではなく「物質」である。
民主制は、「原則・主義」たることを欲しているにもかかわらず、
実際には「物質」的な「機構」ないし「装置」であるにすぎない、
ということをレーニンはここで言っている。
そして、この一節が置かれている場所にもまた注目せねばならない。
それは共産主義社会への移行が語られる第五章に入る直前であり、
すなわちそれは旧社会に関する記述の最後の部分であるということだ。
つまり、階級が存在する旧社会においては、
その最良の原則=民主制は、ついに原則であることを僭称するのみであり、
原則として通用しているものの実在態は物理的強制に他ならない、
という洞察をここに見て取ることが出来る。