05/11東中野RAFTでおこなわれた
すこやかクラブの公演、「ありがとう、味覚」
柳本小百合さん。
【on_Flickr】
本業はミュージシャン。
最近CDも出したようで
リリースライブがある。
◆6月3日(日)
柳本小百合『極上ピクニック』リリースライブ
会場:下北沢mona record
開場:12時 開演:12時半
チケット:1500円+(1ドリンク500円 or ランチセット700円)
すこやかクラブの公演、「ありがとう、味覚」
柳本小百合さん。
【on_Flickr】
本業はミュージシャン。
最近CDも出したようで
リリースライブがある。
◆6月3日(日)
柳本小百合『極上ピクニック』リリースライブ
会場:下北沢mona record
開場:12時 開演:12時半
チケット:1500円+(1ドリンク500円 or ランチセット700円)
本日、沖縄本土復帰40年。
復帰という言葉が果たして適切なのか…どうか。
40年という月日を祝して良いのかどうか。
写真は、写真家前原基男さんの
40年前の5月15日の那覇市民会館前のもの。
40年前の式典は東京と沖縄で開かれ、
当時の佐藤栄作首相は来沖はしなかったのだが、
「沖縄の発展のため、政府諸施策を強力に進めていく」
…と、県民にアピールした…という。
同じく当時の屋良朝苗県知事は、
「沖縄県民のこれまでの要望と心情に照らして
復帰の内容をみますと、私どもの切なる熱望が
必ずしも十分に入れられたとは言えないことも事実であります」
…と式典で述べている。
40年間、何も変わってはいない。
「運命の人」で描かれていたように
結局沖縄はアメリカの出汁に使われたのだ。
そして今でも、その見下した政府の態度は変わらない。
沖縄の基地問題はどうして解決しないのか?について内田樹は新聞に
一方は軍略の話で、他方は生活の話である。話のレベルが違う。
だから話がかみ合わないまま議論はデッドロックに陥っている。
動かそうとすれば「軍略を変える」か「生活実感を変える」しかない。
…と書いている。
「沖縄県民はどういう条件なら基地があることの不快に耐えうるか?」
を問うよりは、同胞としてはまず
「アメリカはどういう条件なら沖縄から出て行ってくれるのか?」
を考えるべきだろう。そのためには
「アメリカは西太平洋で何をしたいのか?
そのプランでの沖縄の位置づけとは何なのか?」
を問うところから話を始めるしかない。
至極まっとうな話の進め方である。
しかし、この当たり前とも言える対話が成り立っていない。
内田樹の記事に依れば、
米軍はすでに韓国内の基地の大幅縮小に踏み切ったらしい。
内田は問う。
「もし朝鮮半島有事への備え」が沖縄に基地を置くことの主たる理由であるというのが本当なら、
「韓国内の米軍基地は縮小できるが、沖縄は現状維持でなければならない理由」については
誰かが筋の通った説明をすべきであろう…と。
まあ、もう語らずもがな…の論点であるが、
アメリカの我が儘(カネ)をとことん世話しているのが、
いまだに敗戦国である立場のニッポンなのだ。
思いやり予算という名において年間2000億円もの税金が
沖縄県内の米軍基地の維持管理費用に充てられている。
いわばアメリカは「タダ同然」で基地を維持することができる。
これが国外移設を困難にしている最たる理由である。
なぜ政府は県民の立場になって物事を論理立てて説明できないか。
ひとえにアメリカに「金玉」を握られているからに他ならない。
なぜ沖縄じゃなきゃいけないのか?
県民のこの単純な問いに、ニッポンもアメリカも
「太平洋戦略上、沖縄に高いレベルの防衛ラインが必要」
という観念的な回答以外になぜ具体的な説明ができないのか?
原発問題の構図とまったく同じだ。
原発が何故必要なのか…の具体的な説明もなしに
大飯原発の再稼働、電気代の7月値上げが着々と進められている。
結局だまされる国民、県民が
糺して行かなければコトの転覆はありえないのだ。
声を大にしていかなくてはならない、何事も。
復帰という言葉が果たして適切なのか…どうか。
40年という月日を祝して良いのかどうか。
写真は、写真家前原基男さんの
40年前の5月15日の那覇市民会館前のもの。
40年前の式典は東京と沖縄で開かれ、
当時の佐藤栄作首相は来沖はしなかったのだが、
「沖縄の発展のため、政府諸施策を強力に進めていく」
…と、県民にアピールした…という。
同じく当時の屋良朝苗県知事は、
「沖縄県民のこれまでの要望と心情に照らして
復帰の内容をみますと、私どもの切なる熱望が
必ずしも十分に入れられたとは言えないことも事実であります」
…と式典で述べている。
40年間、何も変わってはいない。
「運命の人」で描かれていたように
結局沖縄はアメリカの出汁に使われたのだ。
そして今でも、その見下した政府の態度は変わらない。
沖縄の基地問題はどうして解決しないのか?について内田樹は新聞に
一方は軍略の話で、他方は生活の話である。話のレベルが違う。
だから話がかみ合わないまま議論はデッドロックに陥っている。
動かそうとすれば「軍略を変える」か「生活実感を変える」しかない。
…と書いている。
「沖縄県民はどういう条件なら基地があることの不快に耐えうるか?」
を問うよりは、同胞としてはまず
「アメリカはどういう条件なら沖縄から出て行ってくれるのか?」
を考えるべきだろう。そのためには
「アメリカは西太平洋で何をしたいのか?
そのプランでの沖縄の位置づけとは何なのか?」
を問うところから話を始めるしかない。
至極まっとうな話の進め方である。
しかし、この当たり前とも言える対話が成り立っていない。
内田樹の記事に依れば、
米軍はすでに韓国内の基地の大幅縮小に踏み切ったらしい。
内田は問う。
「もし朝鮮半島有事への備え」が沖縄に基地を置くことの主たる理由であるというのが本当なら、
「韓国内の米軍基地は縮小できるが、沖縄は現状維持でなければならない理由」については
誰かが筋の通った説明をすべきであろう…と。
まあ、もう語らずもがな…の論点であるが、
アメリカの我が儘(カネ)をとことん世話しているのが、
いまだに敗戦国である立場のニッポンなのだ。
思いやり予算という名において年間2000億円もの税金が
沖縄県内の米軍基地の維持管理費用に充てられている。
いわばアメリカは「タダ同然」で基地を維持することができる。
これが国外移設を困難にしている最たる理由である。
なぜ政府は県民の立場になって物事を論理立てて説明できないか。
ひとえにアメリカに「金玉」を握られているからに他ならない。
なぜ沖縄じゃなきゃいけないのか?
県民のこの単純な問いに、ニッポンもアメリカも
「太平洋戦略上、沖縄に高いレベルの防衛ラインが必要」
という観念的な回答以外になぜ具体的な説明ができないのか?
原発問題の構図とまったく同じだ。
原発が何故必要なのか…の具体的な説明もなしに
大飯原発の再稼働、電気代の7月値上げが着々と進められている。
結局だまされる国民、県民が
糺して行かなければコトの転覆はありえないのだ。
声を大にしていかなくてはならない、何事も。
防人の詩/さだまさし
おしえてください
この世に生きとし生けるものの
すべての生命に限りがあるのならば
海は死にますか?
山は死にますか?
風はどうですか?
空もそうですか?
おしえてください
わたしは時折 苦しみについて考えます
誰もが等しく 抱いた哀しみについて
生きる苦しみと 老いてゆく哀しみと
病いの苦しみと 死に逝く哀しみと
今の自分と
こたえてください
この世のありとあらゆるものの
すべての命に 約束があるのなら
春は死にますか?
秋は死にますか?
夏が去るように
冬が来るように
みんな逝くのですか?
わずかな生命の きらめきを信じていいですか?
言葉で見えない 望みといったものを
去る人があれば
来る人もあって
欠けてゆく月も
やがて満ちてくる
なりわいの中で
おしえてください
この世に生きとし生けるものの
すべての生命に 限りがあるのならば
海は死にますか?
山は死にますか?
春は死にますか?
秋は死にますか?
愛は死にますか?
心は死にますか?
わたしの大切な故郷もみんな
逝ってしまいますか?
海は死にますか?
山は死にますか?
春は死にますか?
秋は死にますか?
愛は死にますか?
心は死にますか?
わたしの大切な故郷もみんな
逝ってしまいますか?
●
いつのころからか、死が隠蔽されているように思う。
死を無きものとして、今を生きる風潮。
1974年には、こういった歌が
ふつうにラジオから流れていたのだろう。
それだけ死は身近なものだったし、
生きることにも精一杯な時代だった。
2012年。
この歌から38年。
死は忌むべきものとして避けられ、
思考からも外された結果、
人間の営みの振幅もさもしいモノとなってしまったように思う。
今こそ、死を復権させるべき時。
死についての思いを巡らすことで、
生命のきらめきが甦るのだ。
MEMENTO MORI
死を想え
己の死から今をみつめる。
いずれ来る死から今を照射する。
そうすれば為すべきことも
見えてくるというもの。
歌にもあるように
欠けてゆく月も
やがて満ちてくる。
生と死はコインの表と裏。
死から生のエッジが際立つ。
大切なのは、漠然と死を考えるのではなく、
己の死を見つめることだと、思う。
●
05/13はChet Bakerと日野元彦さんの命日。
おしえてください
この世に生きとし生けるものの
すべての生命に限りがあるのならば
海は死にますか?
山は死にますか?
風はどうですか?
空もそうですか?
おしえてください
わたしは時折 苦しみについて考えます
誰もが等しく 抱いた哀しみについて
生きる苦しみと 老いてゆく哀しみと
病いの苦しみと 死に逝く哀しみと
今の自分と
こたえてください
この世のありとあらゆるものの
すべての命に 約束があるのなら
春は死にますか?
秋は死にますか?
夏が去るように
冬が来るように
みんな逝くのですか?
わずかな生命の きらめきを信じていいですか?
言葉で見えない 望みといったものを
去る人があれば
来る人もあって
欠けてゆく月も
やがて満ちてくる
なりわいの中で
おしえてください
この世に生きとし生けるものの
すべての生命に 限りがあるのならば
海は死にますか?
山は死にますか?
春は死にますか?
秋は死にますか?
愛は死にますか?
心は死にますか?
わたしの大切な故郷もみんな
逝ってしまいますか?
海は死にますか?
山は死にますか?
春は死にますか?
秋は死にますか?
愛は死にますか?
心は死にますか?
わたしの大切な故郷もみんな
逝ってしまいますか?
●
いつのころからか、死が隠蔽されているように思う。
死を無きものとして、今を生きる風潮。
1974年には、こういった歌が
ふつうにラジオから流れていたのだろう。
それだけ死は身近なものだったし、
生きることにも精一杯な時代だった。
2012年。
この歌から38年。
死は忌むべきものとして避けられ、
思考からも外された結果、
人間の営みの振幅もさもしいモノとなってしまったように思う。
今こそ、死を復権させるべき時。
死についての思いを巡らすことで、
生命のきらめきが甦るのだ。
MEMENTO MORI
死を想え
己の死から今をみつめる。
いずれ来る死から今を照射する。
そうすれば為すべきことも
見えてくるというもの。
歌にもあるように
欠けてゆく月も
やがて満ちてくる。
生と死はコインの表と裏。
死から生のエッジが際立つ。
大切なのは、漠然と死を考えるのではなく、
己の死を見つめることだと、思う。
●
05/13はChet Bakerと日野元彦さんの命日。
ボクのかんちがいからつながった
ウッドベースのkyoさん。
はじまりは彼女のブログ。
4つもバンドを掛け持ちしている
パワフルな女性。
ステージも髪の毛振り乱して
野太い低音ビョーンビョーンと
ホントにタフな演奏だった。
ウッドベースのkyoさん。
はじまりは彼女のブログ。
4つもバンドを掛け持ちしている
パワフルな女性。
ステージも髪の毛振り乱して
野太い低音ビョーンビョーンと
ホントにタフな演奏だった。