ぶちょうほうの画(え)日記(一語一画(え))

亭主「ぶちょうほう」の身の周りのいろいろな風物を「画(え)日記」ふうに綴っています。

寒い夜は・・・→→→空を見上げて 月や星見でも

2024-12-09 19:59:23 | 草花

いきなり「冬将軍」ほどではないけれど「軍曹」級の寒波の洗礼を受けて、列島が戸惑っています。

「寒い時は厚着をして炬燵に丸まって、ミカンでも食べるか・・・」と言う世相でもなくなり、どなたさんも結構活動的に過ごしているのではないでしょうか。

小生の場合、朝は山望、明るいうちは遠足をして過ごしてきましたが、空気が締まってきたところで、そろそろ星見の時期になってきたと感じています。

4日の月齢3.1 ↓

こんなに細い月でも「三日月」の一日後のものなんです。

 

5日 月齢4.1 ↓

 

同じ晩に金星と ↓

月と金星がかなり近くに見えていました。

 

同じ晩に街明かりとともに ↓

 

6日は雲に邪魔されて ↓

6日の月齢5.1の月は雲の向こうでその形が幽かにわかる程度でした。

 

7日は上弦の月のはずでしたが、この晩はついに見えることはありませんでした。

 

そして8日の月齢7.2 ↓

 

 

今晩(9日)の月齢8.2 ↓

今月の満月は15日になります。  (大晦日は新月です。)

 

8日の木星(衛星付き) ↓

下からエウロパ・ガニメデ・イオ(ほとんどくっついて見える)・木星本体・(右上に離れて)カリスト。

(ソフトで拡大)

 

9日の木星 ↓

下からエウロパ・木星本体・イオ・ガニメデ・右上に離れてカリストとなります。(ソフトで拡大)

 

オリオン ↓

 

すばる ↓

 

街灯などの明かりに邪魔されて星空も見るのに苦労するようになりました。

星を、”星座”として見ることのできるものは幾つもないのが寂しいことです。

 

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三河一向一揆に所縁のお寺、三河三か寺(上宮寺・勝鬘寺(しょうまんじ)・本證寺)を訪ねて

2024-12-07 11:54:02 | 草花

三河一向一揆:

三河一向一揆とは (一向宗:浄土真宗本願寺派)
家康が三河に戻る前の今川統治下まで、この「三河三か寺」は租税の免除と治外法権(守護不入の特権)が認められており、地域の流通経済も掌握するなど非常に大きな力を持っていました。
そこに目をつけたのが、当時20代初めで、岡崎城で自立したばかりの家康でした。
領地拡大のために銭や兵糧を必要とし、領内の寺院に年貢と矢銭(軍資金)を要求したが、反発した寺院や門徒たちが1563年に一揆を起こした。これが三河一向一揆と呼ばれるものです。

規模もさることながら、家康を最も悩ませたのは一門や家臣にも多くの門徒がおり、彼らが一揆側についてしまった事です。
家臣の中で敵と味方に分かれ、主従・親子・兄弟で骨肉の争いとなったり、家康に対抗したい領主たちが信仰に関係なく混乱に乗じて一揆側に加勢したりして・・・・・・・・・・・・
若き家康には過酷すぎる状況だったようです。

 

「三河三か寺」とは:

三河一帯は、15~16世紀、浄土真宗の教えを守る本願寺の門徒たちの一大拠点となっていました。
応仁2(1468)年、中興の祖・蓮如上人の来訪が、宗派拡大のきっかけといわれています。
その中心となったのが「三河三か寺」といわれた岡崎の上宮寺(じょうぐうじ)、勝鬘寺(しょうまんじ)と安城の本證寺(ほんしょうじ)でありました。

 

一揆の収束
これらの「三河三か寺」を中心として半年ほど続いた三河一向一揆ですが、疲弊した両者は和議をして一揆は収束します。
ただ、家康は和議後に武装解除したところを狙い、寺院の破却、改宗を行います。
これにより以後は徳川による三河平定へ傾いていきます。
また、一揆側についた家臣に関して徳川家康は、ほとんどの者の帰参を許しています。
このことは矛盾があるようにも感じますが、この処遇によって、結果としては家臣団の信頼や結束は強まります。
門徒の中には渡辺守綱や蜂屋貞次など、後に徳川十六神将と呼ばれ家臣団の中心を担う人材も含まれていたのですからこの辺の措置は小生の埒の外になります。

長く成りましたが、その「三河三か寺」の比較的近くに住んでいるので、風のない日を狙って自転車でまわってきました。

上宮寺(じょうぐうじ):

 

 

 

 

上宮寺(じょうぐうじ)は、愛知県岡崎市上佐々木町にあります。

沿革
聖徳太子が仏法興隆のために全国を行啓した]。太子が三河国に立ち寄ったとき、一本の霊樹を発見し、その霊樹で自らの像を作り、当寺を興隆し仏法弘通の地としたとされている。

三河一向一揆勃発のきっかけの一つとして、家康の家臣がこの上宮寺に押し入り、強引に兵糧を徴収するという狼藉をはたらいたため、不入の特権を侵された諸寺が怒って蜂起した、という説があります。

当地では有数の大伽藍を誇っていましたが、1988年に焼失。その後1996年に写真のような本堂が再建されました。

大イチョウの木もその時”もらい火”しましたが、生き残った部分から復活しつつあります。

 

 

勝蔓寺(しょうまんじ):

 

 

 

 

勝鬘寺(しょうまんじ)は、愛知県岡崎市針崎町にある真宗大谷派の寺院。山号は和田山、寂光山。

沿革

1256年(康元元年)、顕智(親鸞の弟子真仏に師事した僧)に帰依した権守法名円善の嫡子袈裟太郎法名信願が碧海荘赤渋(現・岡崎市赤渋町)に建立した道場を始まりとするか、または1258年(正嘉2年)、親鸞の矢作説法を聴聞して天台宗から改宗した信願房了海が建立した道場を始まりとするもの。

一向一揆時はここで数ヶ月の間、(一揆側についた)家康の有力家臣らが立てこもるなど一揆方の重要な拠点で、大伽藍が焼失してしまうほどの大激戦の地となりました。

 

 

本證寺(ほんしょうじ):

 

 

 

 

「本證寺」(ほんしょうじ)は、愛知県安城市にある真宗大谷派の寺院で、鎌倉時代の僧「慶円」(けいえん/きょうえん)が1206年(元久3年/建永元年)に創立しました。

寺伝によると、慶円はこの地の人々を苦しめていた大蛇を諭して山に還し(下から3番目の写真にその画が写ります)、このとき山頂から矢を放って、矢が落ちた場所に寺を開いたとされています。

 

ここは「三河一向一揆」(みかわいっこういっき)の拠点になりました。 三河一向一揆は、一向宗信徒による抵抗・示威運動です。 これを呼びかけたのはこの本證寺住職だった「空誓上人」(くうせいしょうにん)で、三河国内の一向宗寺院と信徒が従い、半年間にわたる闘争を繰り広げました。

この寺の外観上のことは11月23日の小記事でご覧ください。

下から二つ目はTVの大河ドラマ「どうする家康」で「空誓上人」役を務めた市川右団次さん、一番下は本多正信役の松山ケンイチさんのサインがこの本證寺のお庫裏の玄関内正面に飾られていました。

 

三か寺を自転車でまわりましたが、結局三河一向一揆の名残の一つも見つけ出すことが出来なかったのは残念でした。

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師走の始めの日に”遠足”

2024-12-02 20:26:14 | 草花

12月の始めの日に、災害非常食の乾パンが賞味期限切れしていることに気づき、、これを昼食にすることに決めて、

”遠足”に出かけることにしました。

空が綺麗に晴れ上がっていましたので、初めにいつも山望に上る付近の高楼に行きます。

木曽御嶽 ↓

タイミングぴったりで、白く雪を纏った霊峰を、この冬初めて見ることが出来ました。

 

中央アルプスも ↓

この山域も雪を纏い始めています。残念ながら雲に邪魔されています。

 

師走入りの朝 ↓

他の山並みは雲に邪魔されてよく見えません。 付近の町並みには穏やかに朝日が当たっています。

 

これにて山望は終わり、精力的に歩き回ることにします。

 

ビワの花 ↓

ビワの花も咲き出してきています。

 

黄葉 ↓

公園を囲む並木の中にひときわ高く黄金の高木がありました。ポプラかな?

 

こちらは紅葉 ↓

同じ公園ですがこちらは紅く決めています。アメリカフウのようでした。

 

川沿いに河口目指して歩きます。この辺は潮の干満を受ける水域です。

コガモでしょうか。このあと飛び立つのかと思いましたが、飛ばずにまた水を泳いでいきます。

 

境川浄化センター ↓

辿り着いたのは衣浦港の最北部付近で、刈谷市では衣崎町と言う地で、ここに7市2町の下水を処理する

施設があります。「境川浄化センター」というこの地方の537,292人、一日あたり処理量180,154立米を

こなす「力持ち」?であります。 ここまで来て、我が刈谷市は海を持っているのだ・・・と実感します。

 

処理水排出口 ↓

最終処理した水が排出されています。

 

ハゼ釣り ↓

そのそばで釣っている人。名古屋ナンバーの車で来ていました。

「狙い目」を聞くと、ハゼとのことです。

処理水の排出口近くで釣れたハゼを食べるのはチョット、チョット・・・とは感じましたね。

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弘法大師にゆかりの三か所と別に神社なども

2024-11-29 04:47:06 | 草花

弘法大師のように有名なお方になると、各地に似たような伝承がありますが、三河の我が町にもそれが残っています。

(少し長くなりますが・・・)伝承:

弘仁十三年(西暦822年)夏真盛りの日暮れ時、重原の里(刈谷市)を通りかかった一人の旅のお坊さんがありました。
お坊さんは、喉のかわきを覚えたので、ある一軒の農家に立ち寄り、水を所望されましたす。
その家の主人は、心よく承知して、冷たい水を恵んでくれましたが、水が差しだされるまでに随分時間がかかってしまいました。
不思議に思ったお坊さんが、そのわけをたずねます。
その答えは「この辺りは土地が高いところにあるもので、井戸が深くなり、水を汲むまでに難儀している。」とのことでした。

これを聞いたお坊さんは、その家が水に苦労しているようすを察して、つと立ち上がると家の前の窪地に、持っていた錫杖を立てました。

そして何やら唱えると、たちまちそこにこんこんと水がわき出てきたのです。この家の者たちの驚きようは大層なものでした。

喜びと感謝をお坊さんにお伝えすると、
「そなたの真心が、仏に通じたのでしょう。」
と言い、そこではじめて、お坊さんは、
「愚僧の名は、空海です。」と名乗りました。
このお坊さんこそ、時の名僧といわれた空海上人、後の弘法大師だったのです。

弘法大師は乞われてこの地にしばらく留まり、他にも二か所井戸を設けていきます。
これを弘法の三つ井戸と言います。(佐次兵衛井戸、乞井戸、慕井戸の三つ)


時が移り、各戸に井戸が整うようになると、弘法大師所縁の三つ井戸も荒れ果てしまい、
忘れられてしまいます。(・・・・・・が、今はそれが復元されています。)

当時は各井戸に弘法大師の像がありましたが、現在は重原の浄福寺山門前の三ツ井戸弘法堂にまつられています。

大師の三つ井戸の一つ佐次兵衛井戸 ↓

 

最終的に纏めて祀られているという浄福寺を訪ねました。

浄福寺山門脇に「三つ井戸弘法堂」 ↓

小さな窓から暗い中を覗き込みます。 ↓

弘法様がおわしまします。

 

浄福寺山門 ↓

立派な山門のある浄福寺 

 

脇から見る浄福寺本堂 ↓

 

境内の大イチョウ ↓

久しぶりに見た見事な黄葉でした。

 

門前にはこんな石柱あり ↓

「これより東 福島領」、そして「重原陣屋跡」とあります。

境内は江戸時代中期以降、福島藩の重原陣屋が置かれた場所に隣接していた為、二つの石碑はそのことを表しているのです。この間のことは長くはなりますが以下にネットからの情報を記します。

引用開始:

寛政の一揆によって刈谷藩は、幕府から村替えの処分を受け重原村、野田村、半城土村、高須村、小垣江村、犬ケ坪村等18か村を、奥州の福島領・幕領の一部と交換することになり、以来福島藩はこの地に陣屋(現在の重原市民館あたり)をおいて郡代により三河の飛地を治めました。浄福寺の前には「重原陣屋跡」の石碑が建てられています。
この碑とならんで「従是東福島領」(これより東、福島領)の碑が建てられています。「従是西福島領」は、知立市の上重原町公民館裏にあり、もとは東海道筋の福島領の東と西の端にありました。福島藩三河分領は、明治2年(1869)三河国に新たに150か村を与えられ、重原藩が誕生し、やはりここを陣屋として治めましたが、明治4年(1871)廃藩となりました。陣屋で使われた門は、半城土町の願行寺の山門に、玄関は十応寺にそれぞれ移築されています。:   引用終了

 

 

別の場所で、田んぼの真ん中に祀られている弘法大師:

見返り弘法大師のお社 ↓

 

祠の中の弘法大師 :

今回は行きませんでしたが、この地の本家本元の弘法山遍照院(この地では単に(弘法様と呼ぶ))があります。

 

 

この記事の最後は人家のはずれに祀られていた弁財天 ↓

祠は大変小規模なもので、鳥居だけが目立つような感じでした。創建の由来も良く分かりません。

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”冬”が近づいている。 秋の名残を訪ねて

2024-11-28 09:18:11 | 草花

暦の上では22日から”小雪”で、とっくに”冬”に入っているのですが、雪どころかまだ霜も見ていません。

このところよく出かける付近の高楼ですが、遠くの山に雪の気配が見えないか、そんなことを「期待」

しながら通っています。

 

木曽御嶽 ↓

恐らくすでに雪は来ているのでしょうが、ここからははっきり確認できません。

 

加賀の白山方面 ↓

前山の背後にごく薄く山体が見えています。そしてそれは白く・・・雪を纏っているように見えます。

となると、これから寒さが本格化してきますね。

 

伊吹山 ↓

 

鈴鹿の鎌・御在所方面 ↓

 

14階から下りて、秋の名残を探します。

 

稲刈り後の田んぼ ↓

田んぼのグラデーション:奥の緑色は切り株から芽出ししたごく若い株の畝で、そのこちら側で浅い黄色は

それが育って再び実(しいなですが)をつけてきた株の並びです。凄い生命力ですね。

♪穫り入れが済んで青田の底ぢから♪  駄句を思い浮かべました。

 

 

八幡宮の社殿 ↓

社叢がこんもり茂っていて普段は近づけない角度なんですが、工事が入っていてめったに見られない建物が見えました。右側が本殿で、左側は拝殿になります。

 

ムラサキゴテン ↓

 

クコの実 ↓

 

キカラスウリの実 ↓

つるごと刈られて地べたに落ちていました。(皺だらけはそのためです。)

 

淡い黄葉 ↓

見た目には良い感じの色付きでしたが、撮り手の腕前により、こんな程度にしかなりません。

 

 

川沿いに銀の穂波 ↓

 

疾走する新幹線 ↓

スマートで力強い!

 

 

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