三河一向一揆:
三河一向一揆とは (一向宗:浄土真宗本願寺派)
家康が三河に戻る前の今川統治下まで、この「三河三か寺」は租税の免除と治外法権(守護不入の特権)が認められており、地域の流通経済も掌握するなど非常に大きな力を持っていました。
そこに目をつけたのが、当時20代初めで、岡崎城で自立したばかりの家康でした。
領地拡大のために銭や兵糧を必要とし、領内の寺院に年貢と矢銭(軍資金)を要求したが、反発した寺院や門徒たちが1563年に一揆を起こした。これが三河一向一揆と呼ばれるものです。
規模もさることながら、家康を最も悩ませたのは一門や家臣にも多くの門徒がおり、彼らが一揆側についてしまった事です。
家臣の中で敵と味方に分かれ、主従・親子・兄弟で骨肉の争いとなったり、家康に対抗したい領主たちが信仰に関係なく混乱に乗じて一揆側に加勢したりして・・・・・・・・・・・・
若き家康には過酷すぎる状況だったようです。
「三河三か寺」とは:
三河一帯は、15~16世紀、浄土真宗の教えを守る本願寺の門徒たちの一大拠点となっていました。
応仁2(1468)年、中興の祖・蓮如上人の来訪が、宗派拡大のきっかけといわれています。
その中心となったのが「三河三か寺」といわれた岡崎の上宮寺(じょうぐうじ)、勝鬘寺(しょうまんじ)と安城の本證寺(ほんしょうじ)でありました。
一揆の収束
これらの「三河三か寺」を中心として半年ほど続いた三河一向一揆ですが、疲弊した両者は和議をして一揆は収束します。
ただ、家康は和議後に武装解除したところを狙い、寺院の破却、改宗を行います。
これにより以後は徳川による三河平定へ傾いていきます。
また、一揆側についた家臣に関して徳川家康は、ほとんどの者の帰参を許しています。
このことは矛盾があるようにも感じますが、この処遇によって、結果としては家臣団の信頼や結束は強まります。
門徒の中には渡辺守綱や蜂屋貞次など、後に徳川十六神将と呼ばれ家臣団の中心を担う人材も含まれていたのですからこの辺の措置は小生の埒の外になります。
長く成りましたが、その「三河三か寺」の比較的近くに住んでいるので、風のない日を狙って自転車でまわってきました。
上宮寺(じょうぐうじ):
上宮寺(じょうぐうじ)は、愛知県岡崎市上佐々木町にあります。
沿革
聖徳太子が仏法興隆のために全国を行啓した]。太子が三河国に立ち寄ったとき、一本の霊樹を発見し、その霊樹で自らの像を作り、当寺を興隆し仏法弘通の地としたとされている。
三河一向一揆勃発のきっかけの一つとして、家康の家臣がこの上宮寺に押し入り、強引に兵糧を徴収するという狼藉をはたらいたため、不入の特権を侵された諸寺が怒って蜂起した、という説があります。
当地では有数の大伽藍を誇っていましたが、1988年に焼失。その後1996年に写真のような本堂が再建されました。
大イチョウの木もその時”もらい火”しましたが、生き残った部分から復活しつつあります。
勝蔓寺(しょうまんじ):
勝鬘寺(しょうまんじ)は、愛知県岡崎市針崎町にある真宗大谷派の寺院。山号は和田山、寂光山。
沿革
1256年(康元元年)、顕智(親鸞の弟子真仏に師事した僧)に帰依した権守法名円善の嫡子袈裟太郎法名信願が碧海荘赤渋(現・岡崎市赤渋町)に建立した道場を始まりとするか、または1258年(正嘉2年)、親鸞の矢作説法を聴聞して天台宗から改宗した信願房了海が建立した道場を始まりとするもの。
一向一揆時はここで数ヶ月の間、(一揆側についた)家康の有力家臣らが立てこもるなど一揆方の重要な拠点で、大伽藍が焼失してしまうほどの大激戦の地となりました。
本證寺(ほんしょうじ):
「本證寺」(ほんしょうじ)は、愛知県安城市にある真宗大谷派の寺院で、鎌倉時代の僧「慶円」(けいえん/きょうえん)が1206年(元久3年/建永元年)に創立しました。
寺伝によると、慶円はこの地の人々を苦しめていた大蛇を諭して山に還し(下から3番目の写真にその画が写ります)、このとき山頂から矢を放って、矢が落ちた場所に寺を開いたとされています。
ここは「三河一向一揆」(みかわいっこういっき)の拠点になりました。 三河一向一揆は、一向宗信徒による抵抗・示威運動です。 これを呼びかけたのはこの本證寺住職だった「空誓上人」(くうせいしょうにん)で、三河国内の一向宗寺院と信徒が従い、半年間にわたる闘争を繰り広げました。
この寺の外観上のことは11月23日の小記事でご覧ください。
下から二つ目はTVの大河ドラマ「どうする家康」で「空誓上人」役を務めた市川右団次さん、一番下は本多正信役の松山ケンイチさんのサインがこの本證寺のお庫裏の玄関内正面に飾られていました。
三か寺を自転車でまわりましたが、結局三河一向一揆の名残の一つも見つけ出すことが出来なかったのは残念でした。