2014年 9月26日
【私本太平記】 第3巻 読了。
世の辻の帖 院の庄・・・より。 後醍醐天皇一行が、流罪地に赴くところの場面。
その子息“大覚ノ宮”が父に一目会いたさに追ってくるが叶わず、已む無く桜の木肌を削り、そこへ我が思いを墨書きした場面である。 以下に其の抜粋を一部、省略&意略表示。
“天莫空勾践 テン コウセンヲ ムナシュウスルナカレ
時非無范蠡” トキニ ハンレイ ナキニシモアラズ
支那(中国)の遠い昔。
呉と越が、覇を争い併呑を窺い合い、倶ニ天ヲ戴カズと争い
呉人越人、同邦ながら互いに憎しみあっていた時代である。
越王勾践は、「会稽の一戦」に敗れ、呉王の虜となり、呉城の土牢に入れられて幾年か過ぎた頃。 范蠡(はんれい)という越の忠臣が、主君の囚われを悲しみ、苦心惨憺、身を塩魚売りにやつして、呉城の禁獄へ忍び、魚の腹に一片の密書を隠し獄へ投げ入れる。
後、勾践が魚を割いてみると、懐かしき范蠡の筆。
【主君よ、范蠡(ハンレイ)がおります、どんな辱(クツジョク)に耐えても死に給うな】・・・と。
やがて時節は巡り、勾践はもう叛(そむ)く力もない者とみられ、許されて越の国へ還された。 ・・・が、その為に最愛な美女西施(せいし)を呉王へ献じなければならなかった。
范蠡は、躊躇する主君を諌め、敢えてその愛人西施を敵の呉宮へささげさせた。
呉王はこの天下第一の美人を得て大いに驕った。
呉の良臣、伍子胥(ごししょ)の諫言も耳に入れず、荒婬と連日の宴舞に国政もみだれ果てた。 遂に待つ日は来たのである。 越軍二十万が、呉へ突入、四隣の晋も楚も斉も一度に起って、呉の領土を分奪り、呉は遂に亡んだ。
かくて越が積年の“会稽ノ辱”を濯ぎ得たのは、偏に勾践の下、只一人の范蠡があった事による。 ・・・と、漢土の史書は日本に迄、彼の名とその忠節とを伝えていた。
後醍醐の君を勾践に、自分を范蠡に擬して、認めたものである。 ・・・ とか。
●闘いの要諦。
●人を用いる事の大切さと人材育成の重要性。
●信頼できる者との交流と忠言を大切にする事の重要性。
●権力と地位を得た者の自省心の維持が如何に難しいか。
●大いなる目的・大義の為には、目前の利害に囚われてはならない。
●“十年一剣を磨く” が如き、執念の戦さが如何に重要か!
オイラには、最早十年なんちゅう、悠長な時間は無いけんど、ならばこそ一時を、この一瞬を無駄にせず、全力で事に当たらざるを得ない心境である。
・・・等々、考えさせられる一時となった。 寝る前、楽しみな一時である。 次は四巻目だぁ~。
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