50年前の東京オリンピックのとき、すでに開高健はナショナリズム高揚のためのこの国家主導のばか騒ぎを非常に冷静に分析している。
「魔女や鬼やらがいるとのことです。『死ぬまでがんばれ』などといっているマゾヒストに国が大変なお金をかけています。金メダル一個に大変なお金がかかっております。いやはや立派な大会です」。
国主導のばか騒ぎ。その準備のために、どれだけの金が消費され、どれだけの労災事故死者があったかも指摘している。
五輪は、規模を拡大させただけの日本の「国体」。平成7年「ふくしま国体」後から、おれはずっと言い続けてきた。
国体というスポーツ大会は、必ず開催地が優勝する。
もちろん、開催地の選手がその年に特別に優秀だったためではない。優勝できる選手を開催前に準備しておく。よそからもってくる。
その結果、開催地の地元出身の選手は、地元開催の年だけは「助っ人選手」に出場機会を譲るため国体に出られない、という現象になる。
行政、民間が一体となった「人的ドーピング」。ただ、それは高校野球や高校サッカーも同じことだ。最近、ロシアのドーピングを責めているスポーツ関係者をニュースで見ていると、失笑というか、苦笑を禁じ得ない。
そんな国体をなぜ競って誘致していたのか。体育館や陸上競技場を建てる公共工事が急増するからである。
ただ、このご時世、もはやそんな施設は「負の遺産」。維持費を食うだけの害物となってしまった。開催に手を挙げる都道府県など、もうない。
五輪も、開催に手を挙げる都市はなくなってくるだろう。リオは、五輪の「負」の端緒となる大会ではと感じている。
2020年の東京五輪招致に際しては、招致委員長が「東京は福島から遠く離れているから安心」、首相は「(メルトダウンの事実を認識していながら)原発は完全なコントロール下にある。汚染水が海に流出することも絶対にない」と世界生中継でウソをついた。こいつは、ドジョウ宰相とのやり取りのときも、近々の国会でもそうだが、その場をしのげればどんなウソでも平気で持ちだしてくる。ウソをつくという行為に抵抗がない。育った環境をみると、そうか、とうなづいてしまう面もあるが。
一流のプロ選手が五輪を回避するケースも目立つ。五輪はもはや不要ーワールドカップの盛り上がりが、それを教えてくれているのではないか。抗っているのは、過去の郷愁に執着している人だけではないのか。
ともかく、国民の困窮をよそに強行してしまったリオ五輪は波乱含みの中で開幕を迎える。
森喜朗さんのような「○○」を担いで、すでにいろいろやってしまって敗色濃厚の中で強行する第2回東京五輪も、もう回避できない段階だろうか。
「○○」ではない、日本の子供たちの未来ために、反知性主義のこのバカ騒ぎをなんとか回避する道はないものか。
国体もそうだが、東京五輪、札幌五輪、長野五輪も。
確かに、土建屋さんと土建屋さんの周辺はたくさん潤してもらったのだが…。
開高健さんは、東京五輪終了後、すぐに戦場取材のために東南アジアで従軍。自身の戦後の貧困の根源を探るため、ともいわれている。
その後、アマゾンに魚釣りに行った。そして、ウイスキーの「トリス」の、あのコピーを生み出した。「人間だからな」という、あれだ。
「世界規模の国体」開催を直前にして、いま一度、開高健の人生をなぞってみようと思っている。
幸い「知的経験のすすめ」が目の前にある。
もはや、国主導のバカ騒ぎに付き合っているようなご時世ではないのだから。
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