アコギおやじのあこぎな日々

初老の域に達したアコギおやじ。
日々のアコースティックな雑観

読めない 書けない 若者たちの恐るべき文盲

2009-06-27 | Weblog
 日本語が読めない、書けない。

 そんな日本人が、急速に増えている。




 社用で文房具店に買い物に行った。レジで領収書を頼んだのだが、若い女性店員さん、宛て名の、極めて簡単な漢字が書けない。


 「新」という字は、書いている途中で止まってしまった。

 「福」の字も書けない。自分が住んでいる、少なくとも今勤めている会社の所在地の地名の一部だ。



 どうみても、二十歳くらい。

 どう見ても、言葉を聴いていても、日本人。




 小学生並みの学力。





 実は、2日前、同じ福島市内のホームセンターで同様に領収書を求めたところ、店員さんがさらに簡単な漢字が書けなかったことがあったばかりなのだ。


 そのときは個人の資質の問題と思って、憐れみを感じたのだが、実は、そんな若者が増殖中だと実感して、愕然とした。






 文盲とまでは言いたくはないが、識字率はきっと現在も学校が不足している国の子どもたちとそれほど変わらないと思しき程度。


 向学心に関しては、世界最低レベルだと思う。


 この学力の低下ぶりは、なんなんだ。

 いや、「学力」なんて上等なものじゃない。

 ヒトとしての「質」。




 もはや、「教育の荒廃」どころの話ではない。


 「国の荒廃」である。



 この二十歳がどんな教育を受けたかということよりも、この二十歳がやがて子を産み、次の世代にどんな教育を施していくというのか、ということが恐るべき問題だ。




 「格差社会」はこの国にさまざまな弊害をうみだしている。

 しかし、現在の日本で「新」や「福」の文字が書けないのは、社会の責任ではなく、まぎれもなく、自分の責任である。





 テレビでは、低俗なお笑いタレントが満開。「おバカタレント」などという、もはや「タレント」という言葉の意味さえ失ったジャンルの出演者がいる。



 「バカ」を売り物にできる奇妙な時代。「逃げ」の国。



 すでに「芸」も「能」もだれも持ち合わせてはいない。また、視聴者も求めてはいない。



 せめて、自分の周囲では日本語が書ける、日本語が理解できる子どもを育てていきたい。




 しかし、テレビの発明によって、ヒトはどれだけのものを失ってしまったのだろうか?






 今夜は、万年筆で息子に手紙を書いてみようっと。



 本来の「メール」ってやつ。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 先生のピアノ伴奏、ゲット! | トップ | ニコニコこども館 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事