熊日新聞に、1ページを割いて掲載される「肥後の異風者伝」というのがあります。
今回は「二本木出身の和製チャップリン 柳妻麗三郎」という人でした。
明治31年、二本木には東雲楼という遊郭があり、そこの主人が東雲座で熊本で始めて映画の上映を行いました。
そのときに庭園の管理人の息子が証明係をしていて、のちにマキノ映画に入り、柳妻麗三郎をいう芸名で活躍したのだそうです。
役者になる前は、奇術の松旭斎天勝一座にはいり、松旭斎天秀の名でチャップリンの扮装をして手品を見せていました。
その後、映画にスカウトされ、大正から昭和にかけて30本以上の映画に出ていましたが、昭和14年、義兄の工場を引き継いでいました。
戦争中に空襲で工場が焼け、戦後は「チャーリー高見」として第3の芸名で活躍したそうですが、そのとき、かばん持ちをしていた息子が、NHK教育テレビの「できるかな」で有名になったノッポさんだそうです。
ノッポさんのお兄さんの話などから、東雲楼に関係ある人たちの話に及び、当時の東雲楼の主人の孫娘で宝塚の団員になった人や女優になったその娘さんの名前もありました。
実は近所の知り合いが同じ孫娘に当たる人で、その方からいろいろ話を聞いているので、なんだか身近に感じてしまいます。
今回は「二本木出身の和製チャップリン 柳妻麗三郎」という人でした。
明治31年、二本木には東雲楼という遊郭があり、そこの主人が東雲座で熊本で始めて映画の上映を行いました。
そのときに庭園の管理人の息子が証明係をしていて、のちにマキノ映画に入り、柳妻麗三郎をいう芸名で活躍したのだそうです。
役者になる前は、奇術の松旭斎天勝一座にはいり、松旭斎天秀の名でチャップリンの扮装をして手品を見せていました。
その後、映画にスカウトされ、大正から昭和にかけて30本以上の映画に出ていましたが、昭和14年、義兄の工場を引き継いでいました。
戦争中に空襲で工場が焼け、戦後は「チャーリー高見」として第3の芸名で活躍したそうですが、そのとき、かばん持ちをしていた息子が、NHK教育テレビの「できるかな」で有名になったノッポさんだそうです。
ノッポさんのお兄さんの話などから、東雲楼に関係ある人たちの話に及び、当時の東雲楼の主人の孫娘で宝塚の団員になった人や女優になったその娘さんの名前もありました。
実は近所の知り合いが同じ孫娘に当たる人で、その方からいろいろ話を聞いているので、なんだか身近に感じてしまいます。
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