『自転車泥棒』 Ladri di Biciclette (伊)
1948年制作、1950年公開 配給:イタリフィルム=松竹 モノクロ
監督 ヴィットリオ・デ・シーカ
脚本 チェザーレ・ザヴァッティーニ、ヴィットリオ・デ・シーカ他
撮影 カルロ・モンテュオリ
音楽 アレッサンドロ・チコニーニ
主演 アントニオ … ランベルト・マッジォラーニ
ブルーノ … エンツォ・スタヨーラ
マリア … リアネーラ・カレル
バイオッコ … ジーノ・サルタマレンダ
アルフレード … ヴィットリオ・アントヌッツィ
戦後間もないローマ。アントニオは長い失業のすえ、ようやく映画のポスター貼りの仕事を得た。しかし、ふとしたすきに
仕事に必要な自転車が盗まれてしまう。被害を警察に訴えたが取り合ってくれない。こうなれば自分で盗まれた自転車を
探すしかない。アントニオは息子のブルーノと町の古自転車の市場に出かけたがそこでも見つけることはできなかった。
偶然、自転車を盗んだ男に似た若者アルフレードを発見して問い詰め警察を呼んだものの証拠がない。
途方にくたアントニオは息子を先に家に帰れと言って見送ったあと、サッカー場の外に置いてあった自転車を盗もうとするが
即刻取り押さえられた。自転車の持ち主はブルーノの涙に負けてアントニオの罪を放免する。放心して手を繋いで歩く親子に
ローマのタ暮が迫る。
第二次大戦後、ハリウッドが華麗で夢物語的な完全娯楽作品を量産する一方で、戦禍にまみれ廃墟と化した祖国の恥部
ともいえる現実を冷淡に直視したリアリズムで描かれたイタリア作品が公開され始めました。ここにペシミズムとは一線を
画する悲劇の実録であり映像が時代の証人となるイタリアン・リアリズム映画の誕生です。これは世界映画史上最大の
衝撃となり、真の映画作家たちが映画の使命を再認識して、さらなるリアリズム芸術の追求が加速されるきっかけとなります。
その先鋒となったのがロベルト・ロセリーニの『無防備都市』、ルキノ・ヴィスコンティの『妄執』、そしてこのデ・シーカでした。
映画は、自転車を盗まれたというたったそれだけのドラマなのですが、現実を単に表面的に取り上げず現実の内部をえぐる
ことによって、現実を歪曲することを徹底的に避けるという姿勢、すなわちイタリアン・リアリズムの根本的な特質でもある
現実との対決・凝視を貫くことに主眼を置いています。その結果として、救いようのないやりきれない現実におちいって
さまよう親子の背景に戦火で荒れ果てたローマが重ねて映し出されています。
映画が主観で作られたものではなく、そこには感傷を排した現実が社会の底辺の叫びとして強く訴えられています。
ただ、デ・シーカには厳しすぎる現実ながらもそれを究極の悲劇とせず、少なくとも未来は明るくあってほしいという願望が
うかがえます。やむを得ずに自転車泥棒になってしまった父親が釈放されるラストシーンにその傾向が現れています。
同じイタリアン・リアリズムのロセリーニが撮っていたならラストシーンは警官に厳しく連行される父親を見つめる息子が
石畳の上で泣き崩れるといったシーンではなかったのかなと想像してしまいます。
冷酷な現実を追求しながらも未来に希望を与えるデ・シーカのこの作風はネオ・ロマンチシズムと称されるフェリーニへと
受け継がれていくことにもなります。