自分の能を棚に上げて人を羨み、自分の格を棚に上げて自分を蔑みながら、人がやりたがらないことをやって、それでお金をもらって生きている私。
これもまた誰もやりたがらないことだけど、動物死骸の始末も仕事の一つ。
ただ、現場は、あくまで私有地や私有建物内。
誰しも、公共の道路に転がる犬猫等の轢死骸を見たことがあると思うけど、そういうのは範疇外。
役所と混同して無料処理を依頼してくる人も少なくないけど、さすがに無料ではできない。
「無料ではやれません」と断ると、「悪い業者」「冷たいヤツ」みたいな雰囲気で憮然とされて電話は終わるのだが、何か悪いことをしたみたいで後味が悪い。
そして、精神が弱っているときには、こんな些細なことがいつまでも心に引っかかったりして、自己嫌悪に陥ってしまうこともある。
対象物として圧倒的に多いのは猫。
少し前も、とある会社の工場で、機械に入りこんだ猫を取り出した。
充分に腐敗し、ウジも大量発生。
とっくになくなった眼球跡に掬うウジを見たら、可哀想やら気味悪いやら。
しかも、硬直した脚が機械に挟み込まれて なかなか抜けず。
しかし、骨を折るのは躊躇われるし、足を切断するのは心情的に不可能。
直視すると気持ち悪さが倍増するので、視線は他に向け、手探りで猫を掴み、頭の半分では猫の形状と動きを想像しながら、もう半分では“晩酌の肴は何にしようかな”なんて 全然違うことを考えて気を紛らわしながら、何とか猫を引っぱり出した。
しかし、こんなのまだ軽い方で、中には、ここで書くのは躊躇われるくらい悲惨・凄惨な現場もある。
昔、猫の共食い現場のエピソードを書いたことがあると思うけど、残念ながら、たまに そのレベル、またそれ以上の現場も発生する。
特に、死骸の数が多い現場は凄惨を極める。
ペットは、人間と違って自殺したりはしない。
また、余程の条件が揃わないかぎり、孤独死することもない。
大方の死因は、飼育放棄や虐待等、人間のエゴや身勝手な振る舞いによるもの。
人間の悪意によって命を落とした数々の腐乱死骸・・・
そんな目に遭った動物達があまりに哀れで 怒りの涙が滲むことがあり、また、その始末をしなければならない自分があまりに惨めで 戸惑いの涙が滲むこともある。
「マンションの屋上に鳥の死骸があるので片付けてほしい」
不動産管理会社から、そんな依頼が入った。
「気持ちが悪いので近づいて確認はしていないが、犬猫ではなく鳥であることは遠目にもわかる」
とのこと。
犬猫と違って、鳥の死骸現場はライト級であることがほとんど。
しかも、天井裏とか床下とかではなく、立ち歩ける場所なので作業はしやすい。
というわけで、私は、結構 気楽にその話を請けた。
鳥死骸があるのは、マンション屋上から更に上の給水タンク設備の上。
そこに行くには、屋上からハシゴを昇らなければならなかった。
屋上を囲っているのは細い鉄柵のみで、生暖かい風がビュービュー。
とにかく、子供の頃から高い所が苦手な私。
屋上にいるだけでも尿意が刺激されたのに、更にその上に行かなければならず、気楽に出向いたはずなのに、結局、なかなかの緊張を強いられるハメになってしまった。
私は、何度もハシゴを昇降するのはイヤだったので、必要になりそうな道具一式を袋にまとめ、それを背負い、及び腰で給水タンクのハシゴを昇った。
そうして到着した給水タンク設備の上は、平面で障害物もなく二足歩行が可能。
また、たいして広くもなく、死骸は探す間もなく発見できた。
しかし、その形が どうもおかしい。
私は怪訝に思いながら、ゆっくり死骸に近づいていった。
「アララ・・・そういうことか・・・」
大きさと色から判断すると、それは鳩とかではなくカラス。
が、頭や足はなく、肩方の翼と肉が半分なくなった胴体と内臓少々。
何がどうなってこういうことになったのか・・・気の毒というか、とても悲惨な状態になっていた。
「気持ち悪・・・さっさと片付けて、とっとと帰ろ!」
高所恐怖症に死骸の気持ち悪さが加わった私は、作業に取り掛かるべく死骸の傍にしゃがみ込んだ。
そして、片手にビニール袋を持ち、もう片方の手で翼の先を摘まもうと手を伸ばした。
「痛ッ!!」
そこは屋上、横にも上にも何もないはずの場所で、突然、私の頭に何かがぶつかった。
慌てて視線を上げて辺りを見回すと、周囲を囲む柵に二羽のカラスがおり、私の方をジッと見ていた。
「なんか恐いな・・・」
“高所”というアウェーで、しかも、私一人対して敵は二羽。
私の中には、それまで味わったことがない妙な恐怖感が沸いてきた。
「仲間を守ろうとしているのか?」
まず、私はそう思った・・・そう思いたかった。
しかし、どこからどう見ても、死骸の状態はそれを否定するものだった。
「ひょっとして、これ(死骸)はコイツらの餌?・・・餌を取られまいとしているのか?」
そう思うと、風は冷たくなかったのに寒気がしてきた。
そして、冷静に考えればただのカラスなのに、二羽が私の動きを封じるため 悪魔的な威圧感を醸し出しているように思えてきた。
「・・・ということは共食い?」
“共喰い”って独特の地獄感がある。
仲間を守ろうとしたのか、餌を奪われまいとしたのか、真のところは定かではなかったけど、状況から判断すると可能性が高いのは後者の方で、私の背筋には悪寒が走った。
「くわばら くわばら・・・」
こんな所に長居は無用。
私は、騒ぎだしたカラスを威嚇しながら、そそくさと死骸を掴んでビニール袋に突っ込み、そして、飛び降りるようにハシゴを降りていった。
通り行く車を避けながら、道端で死んでいる犬猫の死骸を喰うカラスを見かけることがある。
内臓を引きずり出し、肉を啄(つい)ばみ、生をつないでいる。
生きるために必死でやっているのだろうに、その姿は、とても浅ましいものに見える。
そして、ただのエゴと偏見でしかないのがわかっていても、 “生きようとするたくましさ”ではなく“生きることの寒々しさ”を覚える。
また、燕や雀など、可愛らしく思える鳥が多い中で、カラスにはそれがない。
全身 真っ黒の喪服色は死や悪魔を連想させ、また、その乱暴な雑食性が 悪い印象を抱かせるのだろう。
夕暮れ時など、たくさんのカラスが集まって空中を旋廻している様が、何か不吉なことが起こるような不安感を覚えさせることもある。
あと、悪意はないとはいえ、ゴミ置場を荒らされて迷惑を被ることも多い。
だから、嫌われ者になってしまうのだろう。
しかし、よくよく考えてみると、自分と重なるところがなくはない。
残念ながら、私は人に好かれるタイプの人間ではないうえ、人に嫌われる仕事をしている。
それなりに人に対する礼儀やマナーは重んじるほうだけど、それ以前に、面白味のない人間である。
バイタリティーとかユニークに欠け、眉間にシワをよせ仏頂面で過ごしていることが多い。
しかも、性格は神経質で内向的、そのうえ、笑顔も少なく暗い(こういうことを書くこと自体 性格が暗い証拠)。
ネガティブ思考が常で自虐好き。
何かと細かく、その上、結構、わがままだったりする。
したがって、人から好かれにくいのではないかと思うし、自分でも嫌っている。
もちろん、“誰からも嫌われてしまう”なんてことはないと思うけど、関わっても楽しくないなんてことは多いにあると思う。
だからと言って、極端に寂しい思いをしたり孤独感に苛まれたりすることはない。
もともと、人づき合いが苦手で、一人きりの空間や時間を好むほうだから、いつまで経っても変われないのだろう。
それでいて、気が弱いから孤高にはなれない。
人の目をかなり気にしてしまう。
しかも、年の功によって、少しずつでも それが解消しているのではなく、それどころか、歳とともに増している。
自分の仕事について外で多くを語ることはなくなり・・・語りたくもなくなっている。
今とは逆に20代の頃は自分の仕事を自慢していたくらい。
気持ち悪がられようが、奇異の目で見られようが、そんなの気にならなかった。
(極端に見下されたり敬遠されたりすると、落ち込むようなことはあったけど。)
それどころか、「フツーの人間にはできない仕事をやってるんだ!」とばかり、内心で得意になっていた。
それが、今は、この始末。
“非社会的”とはいえ反社会的なことをしているわけでもないし、誰かに迷惑をかけているわけでもないのだけど、いい印象は持たれないのがこの職業。
カラス同様、生きるために必死でやっているだけなのに、
「ヤクザな感じの人が来るのかと思った」
「ぼったくられたり、強引に契約させられたりするかもと不安だった」
等と、依頼者や関係者に言われることも少なくない。
また、言葉だけではなく、実際に人からそのような扱いを受けることもあるし、明らかに気持ち悪がられることもあるし、それで、悔しい思いをしたり 惨めな思いをしたりすることもある。
だったら、人に心象や人の評価なんか気にしなければいい。
気にしなければ楽なもの。
しかし、なかなかそういかない。
どうしても人の目は気になり、ときに虚勢を張り、ときに格好をつける。
なりきれないのに八方美人になろうとする。
必要以上に好かれようとするから、大きなストレスがかかる。
必要以上に善い人に見られようとするから、大きなストレスがかかる。
だから、疲れるし、自分に嫌気がさしてくる。
私も、ただの愚人。
欠点や弱点、直したいところや変えたいところはたくさんある。
嫌いな点はたくさんあるけど、それでも、基本的に、私は自分が好き(大切)。
だって、私は自分、私の命を持っているのは自分、私の人生を生きているのは自分なんだから。
ただ、人の目や世間体を気にし過ぎて、人に好かれようとし過ぎて、いつの間にか、好きになれない自分になっていることがある。
自分の中で、世渡り上手の嫌いな自分が大きな顔をしていることがある。
そうは言っても、この世知辛い世の中を うまく渡っていくためには、自分を殺した社会性と自分を殺す術が必要なことも事実。
だからこそ、たまにでも、短い一時でも、自分と正直に向き合ってみることが必要なのかもしれない。
駄欲を捨て、見栄を捨て、怠惰を捨て、想いを“どう生きていきたいか”の一点に絞って、誰もいないところで 一対一で自分と向き合うことが大切なのかもしれない。
だからと言って、それで自分の境遇や周りの環境が激変することはない。
自分が大きく成長したり変化したりすることもない。
ただ、一時的に、自分とってマシな自分が現れるだけかもしれない。
自分の中にいる嫌われ者が、ちょっとだけ自分の中に居づらくなるだけかもしれない。
しかし、自分を“自分を大切にする”という本道に戻すきっかけにはなる。
同時に、“自分を大切にするって、自分を楽しませることばかりでも、自分を甘やかすことばかりでもない” という教示と、“自分を鍛えること、叱ること、励ますこと、養うことも然り”という教訓を受け取るための知恵を育んでくれる。
そして、そのわずかなことの繰り返しと積み重ねが、好ましい自分をつくっていく。
それが、その先にある、
“自分を大切にできなければ、人生を大切に生きることはできない”
という真理に自分を導いてくれ、人生を好ましいものにしてくれるのではないかと 私は思うのである。
動物死骸についてのお問い合わせは
0120-74-4949