『カラマーゾフの兄弟』の中で、ゾシマ長老の死に際し死臭が漂ったことに対して信仰の動揺を来たした人々の様子を克明に活写したドストエフスキーは、一転して、エピローグの中で少年イリューシャの死の状況をまったくさりげなく叙述している。
「アリーシャは部屋に入った。襞飾りのある白布で覆われた青い棺の中に、小さな両手を組み合せ、目を閉じて、イリューシャが横たわっていた。痩せ衰えた顔の目鼻だちはほとんどまったく変わっていなかったし、ふしぎなことに遺体からほとんど臭気も漂っていなかった」(原卓也訳・ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』「イリューシェチカの葬式。石のそばでの演説」より)
アリョーシャは、ゾシマ長老の死に際して死臭がするかしないかの問題であれほど皆が信仰の動揺を来たすことに驚いた。イリューシャの葬儀の後、友人の少年たちを集めてアリョーシャは最後の演説を行う。その席でアリョーシャは、少年イリューシャの死の際に死臭が漂わないという奇跡が起こったことにまったく触れていないことに注意する必要がある。この感動的な最後の演説の場面には、何かしら漂ってくるものがあると私は感じる。それはきっとエステルの香りだったかもしれない。
ところで、アリョーシャ最後の演説は、「言霊降臨」の注釈になっているような部分があるので、そのまま引用する。
「いいですか、これからの人生にとって、何かすばらしい思い出、それも特に子供のころ、親の家にいるころに作られたすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何ひとつないのです。君たちは教育に関していろいろ話してもらうでしょうが、少年時代から大切に保たれた、何かそういう美しい神聖な思い出こそ、おそらく、最良の教育にほかならないのです。そういう思い出をたくさん集めて人生を作り上げるなら、その人はその後一生、救われるでしょう。そして、たった一つしかすばらしい思い出が心に残らなかったとしても、それがいつの日か僕たちの救いに役立うるのです」 (同『カラマーゾフの兄弟』より)
何よりも大事なことはドストエフスキーから出発すること。そう考えた私は、ドストエフスキーという語句を基にして、動画サイトでネットサーフィンを試みた。こうして私はドストエフスキーを導きの糸として、ビタスとブルガーコフに出会ったのだ。
ビタスは現代ロシアの天才歌手である。三連休の前日にたまたま発見。朝の四時くらいまで引き込まれた。金・土・日と三連休だったが、毎日六時間くらい聴いていた。四日間で計二四時間ビタスを聴いた。聴くたびごとに新しいビタスがそこにいた。結局のところビタス以外に今まで音楽で本当に私が感動したことは一度もなかったことに気づいた。こちらが彼の声を聴くのではなく彼の肉声によって捉えられるとはどういうことかを知った。
ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』原作のロシアのテレビ放送番組を、無料動画サイトで観ることができたのは、もうひとつの幸運であった。無神論を国是とする革命ロシアに悪魔が出現し、モスクワを大混乱に陥れるという内容の小説が現代感覚の映像に置き換えられている。ロシア語は分からないが八時間の番組を飽きずに観とおした。現代ロシアの底力を感じさせるような作品である。番組を見てから原作も読んだのだが、『巨匠とマルガリータ』は、二十世紀ロシア文学のまぎれもない最高傑作である。
★巨匠とマルガリータ2005年:ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に匹敵する傑作★
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