【霊告月記】第六十八回 向田邦子の恋文
向田邦子 (1929-1981)
衛星放送のスカパーで高倉健主演・向田邦子原作の映画「あ・うん」が放映されたので録画しておいて鑑賞した。「あ・うん」は映画賞を総なめにした傑作で何よりも原作のすばらしさが心に残った。向田邦子という人は人間としての気品が際立っていると感じられた。
ユーチューブで「向田邦子」と検索すると数多くのテレビドラマがヒットするのだが、その中で「没後20年 向田邦子が秘めたもの」というドキュメンタリーを見ることができる。向田邦子が家族にも秘した恋文をメインテーマにしたその番組を見て、向田邦子の才能の秘密が分かったような気がした。秘する恋。心の奥底で演じられたドラマを向田邦子はその人生の終局まで「沈黙」し、その沈黙をドラマのかたちでフィクションとして再現した。そこに人は究極のリアリティを感じるのである。
向田邦子原作のドラマを観るとき我々はいいようのないノスタルジア(郷愁)を覚える。ノスタルジアは一種の病気ではあるが避けようもない人間的な病気である。このようにして向田邦子に病みつきになってしまった今日この頃のわたしである。
さて、下はツールゲーネフの小説『初恋』からの引用だが、ノスタルジアとはいかなるものか。雄弁に語って飽きないと思う。人生の秘密を開示していると言えるのではあるまいか?
ああ、青春よ! 青春よ! お前はどんなことにも、かかずらわない。お前はまるで、この宇宙のあらゆる財宝を、ひとり占めにしているかのようだ。憂愁でさえ、お前にとっては慰めだ。悲哀でさえ、お前には似つかわしい。お前は思い上がって傲慢で、「われは、ひとり生きる――まあ見ているがいい!」などと言うけれど、その言葉のはしから、お前の日々はかけり去って、跡かたもなく帳じりもなく、消えていってしまうのだ。さながら、日なたの蝋のように、雪のように。……ひょっとすると、お前の魅力の秘密はつまるところ、一切を成しうることにあるのではなくて、一切を成しうると考えることができるところに、あるのかもしれない。ありあまる力を、ほかにどうにも使いようがないので、ただ風のまにまに吹き散らしてしまうところに、あるのかもしれない。我々の一人々々が、大まじめで自分を放蕩者と思い込んで、「ああ、もし無駄に時を浪費さえしなかったら、えらいことができたのになあ!」と、立派な口をきく資格があるものと、大まじめで信じているところに、あるのかもしれない。
さて、わたしもそうだったのだ。……ほんの束の間たち現われたわたしの初恋のまぼろしを、溜息の一吐き、うら悲しい感触の一息吹きをもって、見送るか見送らないかのあの頃は、わたしはなんという希望に満ちていただろう! 何を待ちもうけていたことだろう! なんという豊かな未来を、心に描いていたことだろう!
しかも、わたしの期待したことのなかで、いったい何が実現しただろうか? 今、わたしの人生に夕べの影がすでに射し始めた時になってみると、あのみるみるうちに過ぎてしまった朝まだきの春の雷雨の思い出ほどに、すがすがしくも懐しいものが、ほかに何か残っているだろうか?
ドキュメンタリー番組「没後20年 向田邦子が秘めたもの」
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