馬場あき子の外国詠56(2012年9月)
【中欧を行く カレル橋】『世紀』(2001年刊)P116~
参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:N・I(欠席、レポートのみ) 司会と記録:鹿取 未放
407 粗末なる青い家の一間に書いてゐしカフカの『判決』のかなしみ思へ
(レポート)
プラハはカフカの街である。人間に疑問を突き返してくる街の造り。「判決」の本を探したのですが見つからず「かなしみ思へ」が定かではないのですが、「審判」によれば、ある日突然無実の人が逮捕される内容だったと思いますが、その関連からすれば、何となく分かる気がします。 (N・I)
(当日発言)
★実際のカフカは若いとき司法の勉強をしたが、「判決」は「審判」とは違い司法の話ではない。
一晩で書き上げたそうだが、「夢の形式」といわれるカフカの作風が確立された作と言われて
いる。父親との葛藤が主題で、判決とは父親が息子に下す死の命令のことを指している。女の
色香に迷って家族や友人をないがしろにしていると息子をなじった父親は息子に溺死を命じ、
息子は家族を愛していると呟きながら橋の上から身を投げるという話である。(鹿取)
★「判決」の内容が分かればこの歌は難しくはない。カフカの実人生ではお父さんは小説を書く
ことに反対だったり、どの恋人も父に気に入ってもらえなくて生涯独身だったり、葛藤があった。
この小説にも「変身」などにも父との葛藤が色濃く反映している。小説だけ読んでいるとカフカ
は実人生でもうまく生きていけなかった人のように思えるが、実は有能な会社員として出世もし
ている。それでもカフカは小説を書きたかったし、その時間が欲しかった。そのため二交代制の
会社に勤め、早番で仕事を切り上げると残りの時間を小説書きにあてた。もっとも、この「青い
家」では「判決」は書いていないようだ。(鹿取)
(追記)(2012年9月)
勉強会で思い出せなかったカフカが勤めた会社名は、半官半民の労働者障害保険協会。カフカは仕事も出来たがテニス、水泳、ボートなどを好むスポーツマンでもあった。「判決」(「変身」も同年筆)が書かれたのは「青い家」に住む4年前の1912年のことである。その時住んでいたのはカフカ自身が借りたパリ通りのアパートであるが、今は壊され、五つ星のインターコンチネンタルホテルとなっている。彼が次々と仕事部屋を替えたのは騒音が気になったからのようで、「青い家」は静かで気に入っていると恋人への手紙に書いている。ちなみにカフカは結核で1924年41歳の若さで没した。父母も30年代に相次いで亡くなり、カフカと同じユダヤ人墓地に葬られている。その後39年プラハはナチスに占領され、カフカに借家を提供してくれた3人の妹たちは全員ユダヤ人強制収容所で亡くなったという。(鹿取)
【中欧を行く カレル橋】『世紀』(2001年刊)P116~
参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:N・I(欠席、レポートのみ) 司会と記録:鹿取 未放
407 粗末なる青い家の一間に書いてゐしカフカの『判決』のかなしみ思へ
(レポート)
プラハはカフカの街である。人間に疑問を突き返してくる街の造り。「判決」の本を探したのですが見つからず「かなしみ思へ」が定かではないのですが、「審判」によれば、ある日突然無実の人が逮捕される内容だったと思いますが、その関連からすれば、何となく分かる気がします。 (N・I)
(当日発言)
★実際のカフカは若いとき司法の勉強をしたが、「判決」は「審判」とは違い司法の話ではない。
一晩で書き上げたそうだが、「夢の形式」といわれるカフカの作風が確立された作と言われて
いる。父親との葛藤が主題で、判決とは父親が息子に下す死の命令のことを指している。女の
色香に迷って家族や友人をないがしろにしていると息子をなじった父親は息子に溺死を命じ、
息子は家族を愛していると呟きながら橋の上から身を投げるという話である。(鹿取)
★「判決」の内容が分かればこの歌は難しくはない。カフカの実人生ではお父さんは小説を書く
ことに反対だったり、どの恋人も父に気に入ってもらえなくて生涯独身だったり、葛藤があった。
この小説にも「変身」などにも父との葛藤が色濃く反映している。小説だけ読んでいるとカフカ
は実人生でもうまく生きていけなかった人のように思えるが、実は有能な会社員として出世もし
ている。それでもカフカは小説を書きたかったし、その時間が欲しかった。そのため二交代制の
会社に勤め、早番で仕事を切り上げると残りの時間を小説書きにあてた。もっとも、この「青い
家」では「判決」は書いていないようだ。(鹿取)
(追記)(2012年9月)
勉強会で思い出せなかったカフカが勤めた会社名は、半官半民の労働者障害保険協会。カフカは仕事も出来たがテニス、水泳、ボートなどを好むスポーツマンでもあった。「判決」(「変身」も同年筆)が書かれたのは「青い家」に住む4年前の1912年のことである。その時住んでいたのはカフカ自身が借りたパリ通りのアパートであるが、今は壊され、五つ星のインターコンチネンタルホテルとなっている。彼が次々と仕事部屋を替えたのは騒音が気になったからのようで、「青い家」は静かで気に入っていると恋人への手紙に書いている。ちなみにカフカは結核で1924年41歳の若さで没した。父母も30年代に相次いで亡くなり、カフカと同じユダヤ人墓地に葬られている。その後39年プラハはナチスに占領され、カフカに借家を提供してくれた3人の妹たちは全員ユダヤ人強制収容所で亡くなったという。(鹿取)