かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 403(中欧)

2020-04-21 20:19:32 | 短歌の鑑賞
 馬場あき子の外国詠56(2012年9月)
     【中欧を行く カレル橋】『世紀』(2001年刊)P116~
      参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:N・I(欠席、レポートのみ)    司会と記録:鹿取 未放


403 ビート聖堂にミュシャの光と影ありて聖者さびしげに瞑目したり

         (レポート)
 天を突く鋭いゴシック様式の教会。窓はミュシャらの美しいステンドグラスで飾られている。その明るさの中に陰影の内面を見つめている様に作者は感じ瞑目のさびしさと捉えたのだと思います。(N・I)


            (当日発言)
★レポーターのN・Iさんには前回の曽我さんのレポートを送った。しかしN・Iさんの鑑賞はそ
 れを踏まえて書かれていない。これでは困る。(藤本)
★鹿取さんが毎回渡すレポーター用の注意書きには、①まず歌の解釈をする②自分の考えはそれか
 ら述べるとあるが、N・Iさんの批評には歌の解釈がない。(曽我)
★前回の402番歌(ステンドグラスの絵図に悲しみの祈りあれどミュシャの光をわれは見てゐる)
 ではミュシャの光を、この歌ではミュシャの光と影を見ている。聖者は前回曽我さんが調べてく
 れたキリルとメトディウスで、チェコにキリスト教を伝えた二人。彼らが寂しそうに目をつぶっ
 ているという意味。(藤本)
★前回のまとめにステンドグラスの一部を拡大した図を入れた。拡大するとミュシャの特色がよ
 く見て取れる。ステンドグラスが大きすぎて聖者が瞑目している部分はよく分からないが、現
 地では見えたのだろう。前の人々が述べた意見をよく聞いてそれを踏まえた発言をするのは大切
 なことで、それをしない人がいると佐々木実之さんがよく苦言を呈していた。旅の歌の鑑賞は同
 じ国が何ヶ月も続いているので、以前の意見を踏まえることが特に大切だ。(鹿取)
★この歌はビート聖堂とミュシャに頼っている。「さびしげに」も私たちが使ったらアウトでは
 ないか。(慧子)
★でもビート聖堂とミュシャのステンドグラスは目の前にある事実だから頼っているとはいえな
 い。「さびしげに」が活きているかどうかの判断は鑑賞者によるかもしれないが、私は活きて
 いると思う。また「さびしげに」は作者の感情を直接表現したものではない。(鹿取)
★ステンドグラスそのものも陽光を受けて美しく輝いているだろうが、絵そのものに光と影があっ
 て、影の部分の一つに目を瞑った聖者がいる。光と影はもちろん精神のそれでもあるのだろう。
    (鹿取)
★キリスト教そのものが変遷している。時には迫害されたりもする。そういう哀しさを秘めて聖
 者は瞑目しているのかもしれない。(藤本)


コメント
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