2022年度版 渡辺松男研究2の27(2019年9月実施)
Ⅳ〈蟬とてのひら〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P133~
参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉真帆、渡部慧子 司会と記録:鹿取未放
200 てのひらののっぺらぼうにぎょっとせり結んでひらくてのひらは妣(はは)
(当日意見)
★渡辺さんは感覚から入る人ですよね。上の句は言えるかもしれないけど、てのひらは
妣という下の句が渡辺松男さんですよね。掌は何にも無いと思っているけれど、ての
ひらが見えた途端に、ああこれこそがお母さんなんだと思った。理屈ではないんで
す。まして今の母親と昔の母親は違うから、こざかしいことを言ったりしたりしな
い。生命線とか運命線とか言われますがそれは人間が後から考えたことで。普通は結
ぶか開くか一方しか入れないけど両方の動作を入れて、これがお母さんなんだなあ
と。足の裏でもなく腕でもなく胴体でもなく、てのひら。抱えるような包むような支
えるような感じ。のっぺらぼうには違いないんだけど。(A・K)
(レポート①)
母との遊戯の記憶、またその手に包まれたり、握りしめて貰った記憶はいつよりか、作者の手が母の手をまた笑顔をつつむようになっていただろう。あるとき掌中の大切を確かめるように掌を開いてみたのかもしれないが、そこに見えるはずの母の笑顔どころか表情さえなく、のっぺらぼうだという。なるほど、あるときの死者はのっぺらぼうかもしれない。が、この、のっぺらぼうという言葉を選んだ作者に〈ああ母はとつぜん消えてゆきたれど一生なんて青虫にもある〉があるが、この内容と掲出歌とどこか通い合うものがあるように思う。死をことさらに厳粛視していないゆえんの何か。掲出歌と前述の歌の二首に限れば母の死についての言葉選びは土に関わっていて死への向き合い方がみえる。先に厳粛視していないとしたが、達観や諦念とも違うつきぬけたものがあると思う。(慧子)
(レポート②)
妣は亡き母のこと。妣がおもむろに開いた手をみると、そこにあるはずの手相や指紋などが何もない。「のっぺらぼう」だったので思わずぎょっとした、というほどの一首だろう。意表を突かれぎょっとするその臨場感や、ぬらりとした触感や、得体のしれない不気味さが、ユーモアをもって描かれている。表現工夫を見てみたい。まず初句で「てのひらののっぺらぼう」を提示することで、あののっぺらぼうの風貌が白いてのひらの形と重なり、ぬっと現れる。次いで腰の部分に置かれた「ぎょっとせり」の心情が、下句によってより強調される仕組みとなっている。「妣のてのひら」とは詠まず「てのひらの妣」と詠むことで、存在の全てがただ「手」だけになっているような怖ろしさも醸しだされる。また、開く、だけでも充分伝わるところを、あえて「結んで」をつけたことにより、ひらかれるまでの時間が加わり、情の焦点がより手のひらへのおどろおどろしさへと移行される。このような表現の工夫のため一首には情報を多く入れることができず、これは夢なのか、作者の幼い頃の記憶なのか、幽霊を見ているのかなどなど、場面を特定することが難しくなっているように思う。だがそのミステリーこそがこの歌の味だともいえよう。(真帆)
(レポート③)(紙上参加意見)
手を握った時のじんわりとしたぬくもりは、手を開くとふわっとひろがって、すぐに消えてしまう。そして、また握れば現れる。確かに亡き母のようでもある。
愛する者の喪失は、死後も鮮やかな実感を伴って繰り返される。その酷い瞬間を切り取った歌だと思う。けれど、上句の怪談めいた怖い表現でぎょっとさせながら、下句のあかるさときっぱりとした言い切り方によって、母の手のひらに包み込まれるような深い愛の歌にしていて、すごい表現力だと思う。(菅原)
Ⅳ〈蟬とてのひら〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P133~
参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉真帆、渡部慧子 司会と記録:鹿取未放
200 てのひらののっぺらぼうにぎょっとせり結んでひらくてのひらは妣(はは)
(当日意見)
★渡辺さんは感覚から入る人ですよね。上の句は言えるかもしれないけど、てのひらは
妣という下の句が渡辺松男さんですよね。掌は何にも無いと思っているけれど、ての
ひらが見えた途端に、ああこれこそがお母さんなんだと思った。理屈ではないんで
す。まして今の母親と昔の母親は違うから、こざかしいことを言ったりしたりしな
い。生命線とか運命線とか言われますがそれは人間が後から考えたことで。普通は結
ぶか開くか一方しか入れないけど両方の動作を入れて、これがお母さんなんだなあ
と。足の裏でもなく腕でもなく胴体でもなく、てのひら。抱えるような包むような支
えるような感じ。のっぺらぼうには違いないんだけど。(A・K)
(レポート①)
母との遊戯の記憶、またその手に包まれたり、握りしめて貰った記憶はいつよりか、作者の手が母の手をまた笑顔をつつむようになっていただろう。あるとき掌中の大切を確かめるように掌を開いてみたのかもしれないが、そこに見えるはずの母の笑顔どころか表情さえなく、のっぺらぼうだという。なるほど、あるときの死者はのっぺらぼうかもしれない。が、この、のっぺらぼうという言葉を選んだ作者に〈ああ母はとつぜん消えてゆきたれど一生なんて青虫にもある〉があるが、この内容と掲出歌とどこか通い合うものがあるように思う。死をことさらに厳粛視していないゆえんの何か。掲出歌と前述の歌の二首に限れば母の死についての言葉選びは土に関わっていて死への向き合い方がみえる。先に厳粛視していないとしたが、達観や諦念とも違うつきぬけたものがあると思う。(慧子)
(レポート②)
妣は亡き母のこと。妣がおもむろに開いた手をみると、そこにあるはずの手相や指紋などが何もない。「のっぺらぼう」だったので思わずぎょっとした、というほどの一首だろう。意表を突かれぎょっとするその臨場感や、ぬらりとした触感や、得体のしれない不気味さが、ユーモアをもって描かれている。表現工夫を見てみたい。まず初句で「てのひらののっぺらぼう」を提示することで、あののっぺらぼうの風貌が白いてのひらの形と重なり、ぬっと現れる。次いで腰の部分に置かれた「ぎょっとせり」の心情が、下句によってより強調される仕組みとなっている。「妣のてのひら」とは詠まず「てのひらの妣」と詠むことで、存在の全てがただ「手」だけになっているような怖ろしさも醸しだされる。また、開く、だけでも充分伝わるところを、あえて「結んで」をつけたことにより、ひらかれるまでの時間が加わり、情の焦点がより手のひらへのおどろおどろしさへと移行される。このような表現の工夫のため一首には情報を多く入れることができず、これは夢なのか、作者の幼い頃の記憶なのか、幽霊を見ているのかなどなど、場面を特定することが難しくなっているように思う。だがそのミステリーこそがこの歌の味だともいえよう。(真帆)
(レポート③)(紙上参加意見)
手を握った時のじんわりとしたぬくもりは、手を開くとふわっとひろがって、すぐに消えてしまう。そして、また握れば現れる。確かに亡き母のようでもある。
愛する者の喪失は、死後も鮮やかな実感を伴って繰り返される。その酷い瞬間を切り取った歌だと思う。けれど、上句の怪談めいた怖い表現でぎょっとさせながら、下句のあかるさときっぱりとした言い切り方によって、母の手のひらに包み込まれるような深い愛の歌にしていて、すごい表現力だと思う。(菅原)