かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 210

2022-12-15 09:17:14 | 短歌の鑑賞
   2022年度用 渡辺松男研究2の28(2019年10月実施)
     Ⅳ〈水〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P138~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、鹿取未放
     レポーター:岡東和子    司会と記録:鹿取未放


210 ぽちゃぽちゃとわたしは歩く水ぶくろ歩きつかれて月下水のむ

       (レポート)
 作者は歩いている。歩き疲れて夜になり、月が出ているその下で、水をのむという。人間は身体の半分以上が水だから、「歩く水ぶくろ」である。ぽちやぽちやという擬音語が「水ぶくろ」につながつて、ユ―モアさえ感じさせられる。水に苦しむ作者が「水のむ」というのは、ブラツクユ―モアだろう。(岡東)


        (紙上参加意見)
 人体はほぼ水でできていて確かに水袋という表現がぴったりだ、ぽちゃぽちゃという音はかわいい。水袋だけどなんだか愛しい感じ。その水袋が歩き、疲れて、水をのんだ。水袋が水を補給するのはなんだか滑稽でもある。けれど「月下水のむ」という美しい表現に作者の存在への肯定感が感じられる。いい歌。(菅原)


         (当日発言)
★表記ですが、「囊」という字で「ふくろ」と読ませるのが合っているような気がす
 る。この歌は「ふくろ」とひらかなですが「囊」という字を意識しているんじゃな
 いかなあ。前の2首に比べてわかりやすい。おとぎ話っぽいけど分かる気がする。
    (A・K)
★自分は水のふくろで歩くにも体中の水がぽちゃぽちゃと揺れて苦しい。そして歩き疲
 れて月の煌々と照る(とは書いてないけど)下で水を飲む。月下だから、この部分は
 苦しいイメージではない気がする。(鹿取)
★菅原さんが書いている「「月下水のむ」という美しい表現に作者の存在への肯定感が
 感じられる。」は違うんじゃないかなあ。そこまでは言ってないんじゃないですか。
 もっと切ないというか、そうせざるをえない、存在としての切なさ。(A・K)
★もっと肉体的な感じですか?(鹿取)
★そう、そう。(A・K)
★水吐くではなく水飲むだから。ぽちゃぽちゃというオノマトペがものすごくリアルで
 実感として伝わってきて。喉は渇いていないのに歩き疲れて水を飲むのは生きる哀し
 さのよう。菅原さんは上の句の方に重点を置いて、それでも水を飲むことに生きるこ
 とを受け入れたというような肯定感かなあと思います。でも、あまり積極的な肯定感
 ではないような。(真帆)
★理屈とか哲学とかではなしに、肉体として水を飲む。プラスもマイナスもなくて、善
 悪でもなくて、精神ではなくて、人間の肉体をもっている私は水を飲みますという。
 そこで「月下」というのが効いている。木の元とか川のほとりでは駄目で。
   (A・K)
★「月下水のむ」って漢詩みたいで調べが張ってますよね。上の句はへにゃへにゃし
 てるけど。(鹿取)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする