かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 373

2025-01-19 09:35:06 | 短歌の鑑賞

  2025年度版 渡辺松男研究45(2017年1月実施)
     『寒気氾濫』(1997年) 【冬桜】P151~
       参加者:泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、
              渡部慧子、鹿取未放
          レポーター:泉真帆     司会と記録:鹿取未放          
       

373 ひとひとりわれには常に欠けていて日向(ひなた)行くときふと思い出す

      (レポート)
 一首を詠んだ情動の根元には作者のひりひりとした思索や憶いがあるのだろうが、うたの作り方は、なぞなぞのように楽しい。日向を行く時に欠けている「ひとひとり」とは、作者の影だろう。肉体をもち実存するわれという認識が、常に作者には欠けてしまう。あるときは詩人にあるときは自然そのものになる作者。意識を現実にひきもどされた一瞬を詠んだ歌か。(真帆)

                                          
            (当日意見)
★「ひとひとり」というのは、作者の他に誰かいるのですか?(M・S)
★この次の歌、「永遠に会いえざること 冬の日はなかば寂しくなかば浄たり」、377番歌「ひとひとりおもえば見ゆる冬木立ひかりは幹に枝に纏わる」、378番歌「バスの来るまでを笑みいしあなたなりき最後の声を思い出せない」を思うと、そうですね。この一連も私は書いてあるとおりに読んで思 う人がいるんだけれどその人は傍にはいない。その欠けた存在を日向を行くときにふっと思い出した、と単純に読みました。もちろん、真帆さんのような読みもできるし、王朝の和歌なども題詠の恋の歌だけど、そこに俗世を離れて美しい世界を希求する気持ちだとか出世の願望が叶わない嘆きだとかいろいろ複雑な感情を投影しているので……多様に読み取ることはいくらでもできると思います。この歌、好きな歌で、「日向(ひなた)行くときふと思い出す」がいいなあと。なにか懐かしげですよね。馬場あき子に、夭死したお母さんを秋の日向で思っている有名な歌があるのですが、正確に思い出せません。(鹿取)
★自分の中の普遍的なわれというように考えると、そこから見るとわれには欠けている部分があって常に欠落感を感じている。日向にいるとふと欠落した部分が浮かび上がってくるというようなことではないか。377番も同じ。378番は明らかに恋の歌だけど、この373番歌は378番歌の声を思い出せないというような欠落感ではないように思う。恋と綯い交ぜになっているような感じ。恋だけだと歌が狭くなってしまう。(鈴木)
★鈴木さんの意見、恋だけだと狭いということはよく分かるけど、まあ、これは渡辺松男さんが歌を作り始めた頃の作品だから、こんな素直な恋の歌もありかなあと私は思います。    (鹿取)


         (まとめ)
 当日発言で私が思い出そうとしていた馬場あき子の歌は次の通り。(鹿取)
母をしらねば母とならざりし日向にて顔なき者とほほえみかわす 『飛花抄』

 


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