かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

清見糺の一首鑑賞  148

2021-09-17 17:13:15 | 短歌の鑑賞
 ブログ版清見糺鑑賞 22  かりん鎌倉なぎさの会  鹿取 未放
    参加者:井上久美子 寺戸和子  中山洋祐  鹿取未放       
     
148 鐘が鳴るベルリオーズの鐘が鳴るひゃくねんたってもかえらぬむかし
              「かりん」2000年7月号

     (当日意見)
★下句のひらがな表記が、鐘の音によく見合っている。(井上)
★「鐘が鳴る」の繰り返しには、予言めいた昔の童謡を思わせられる。(中山)
★「百年たったら帰っておいで」という寺山修司の詩があった。寺山の最後の映画「さらば箱船」
 のメインテーマになったセリフである。(寺戸)
★それって漱石の「夢十夜」が原典かもしれない。帰ってくると言った女性を、その墓の前で男が
 待つ話。百合が咲いて100年経ったんだって男が悟る。(鹿取)


    (後日意見)(06年3月)
 ベルリオーズは一九世紀後半のフランスロマン派の作曲家。この鐘は有名な「幻想交響曲」のものであろう。ベルリオーズは二度の手痛い失恋からこの自伝的作品を書いたといわれている。失恋した相手を恨んで殺そうとするが失敗し、主人公が自殺する話を〈幻想〉交響曲に仕立てているのだ。その曲の中で主人公の葬儀に教会の鐘を鳴らす場面があるが、「ベルリオーズの鐘が鳴る」とはそのことを言っているのだろう。
 すると「ひゃくねんたってもかえらぬむかし」は作者がかつての失恋を思い出して言っているのだろうか。あるいは何か断念せざるをえないことが差し迫っていたのか。ここからは私見であるが、彼は常々「地獄を見たい」と言っていた。人生の深みをまだ味わっていないから、と。そうするとこの歌は、地獄を見た後の退散のうめき声のようにとれる。地獄を見てしまったのち、そのあまりのおどろおどろさに己の真実の思いを曲げて、清見糺自身を葬送するのである。あえて地獄を見てまでもつらぬこうと思った真実の何かをここで葬り、手放したが最後二度と戻ってこない、それが分かっていて断念するのである。「鐘が鳴る」の繰り返しが呪いの文句のように響く。とまれ、古歌にはこんな歌もある。作者が知っていたかどうか。(鹿取)
  〈ささなみや三井の古寺鐘はあれど昔に帰る鐘は聞こえず〉

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