かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 154(ネパール)

2020-01-18 18:55:31 | 短歌の鑑賞
  馬場の外国詠 19(2009年7月)
    【ムスタン】『ゆふがほの家』(2006年刊)91頁~
    参加者:泉可奈、T・S、T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:渡部 慧子 司会とまとめ:鹿取 未放

                 
154 夢と思ひしヒマラヤの雄々しきマチャプチャレまなかひに来てわれを閲せり

         (レポート)
 「夢と思ひし」は「ヒマラヤの雄々しきマチャプチャレ」にまで掛かっていよう。宗教上の理由から登山許可の出されていない聖なる山が「まなかひに来て」のとおり作者に近づいてきた。もちろん、高速で近づくと自分の方か相手方なのか、錯覚を起こすこともある。さてそのマチャプチャレが「われを閲せり」と作者を見て調べているという。雄々しい聖者ならばありうる話だ。だが作者も相手の意中をちゃんとみてとって呑まれてしまってはいない。スケールの大きさに擬人法という手法さえかすんでしまって、実感として壮大な気分がつらぬかれている。(慧子)


          (まとめ)
 「夢と思ひし」はヒマラヤにもマチャプチャレにも掛かっているのだろう。ヒマラヤを現地で眺めるなどということは夢にすぎないと思っていたが、はからずもヒマラヤにやってくることができた。そのヒマラヤの中でも屈指の秀峰である雄々しきマチャプチャレが、飛行中の目前に迫ってきた。そして「お前は何者だい?」と問うのだ。しかしレポーターがいうように、小さな人間である〈われ〉はここではしっかりとマチャプチャレに対峙しているようだ。(鹿取)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

写真入り 馬場あき子の外国詠 153(ネパール)

2020-01-17 17:35:02 | 短歌の鑑賞
  
   滞在したジョムソン・マウンテン・リゾートホテルから毎朝見えていたダウラギリ。実兄はもっと迫力があった!  

   写真入り馬場の外国詠 19(2009年7月)
    【ムスタン】『ゆふがほの家』(2006年刊)91頁~
    参加者:泉可奈、T・S、T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:渡部 慧子 司会とまとめ:鹿取 未放

                 
153 眼前にダウラギリ屹(た)つ腰のほどわが小型機は唸りよぎれり

               (レポート)
 小型機に乗りすすんでいくのだが、そびえている「ダウラギリ」のちょうど「腰のほど」とでもいうあたりにさしかかる。壮大な山容を背景に「小型機は唸りよぎれり」とは、蠅か何か昆虫の生のひたすらさが連想される。小さな存在の人間とその営為の所産が八千メートル級にして迫力あるダウラギリの前をよぎっている。ダウラギリはⅠ峰からⅣ峰まであり、1900年に日本の仏教学者河口慧海は「泰然として安産せる如く聳えて居る高雪峰は是ぞ、ドーラギリ」と記している。また、イエティー(雪男)の棲む山として日本から探索隊を出すなどしている。(慧子)


             (当日意見)
★「中腹」とかいわず、「腰のほど」といったところがイメージしやすくてよい。(泉)
★聳え立つダウラギリの腰のほどを小型機で唸りながら行く心弾み、爽快さを言っているように思
 われる。(鹿取)


               (まとめ)
 この心弾みからするとポカラからジョムソンに初めて飛んだ行きの飛行機だろうか。18人乗りの小型機で、操縦席と客席はカーテンの仕切りだけだが、カーテンは開けてあった。ポカラの町からも見えていたマチャプチャレ6993mを右に見ながらて飛び、まもなくアンナプルナ8091mが右手に見える。山と山のわずかな谷を飛行するので、これらの高峰が手に取るような迫力で迫ってくる。やがて左手にダウラギリ8167mが近づき、いかにもその腰のあたりをかすめて飛ぶのだ。「唸り」の部分も実感がある。
 ちなみにダウラギリはサンスクリット語で「白い山」を意味し、その高さは世界第7位。3日間宿泊した「ジョムソン・マウンテンリゾート」からはカリガンダキ河以外は砂礫の風景の出口に、ダウラギリが白い屏風のような偉容を毎日見せていた。(鹿取)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

写真入り 馬場あき子の外国詠 152(ネパール)

2020-01-16 20:03:57 | 短歌の鑑賞

18人乗りの小型機。お隣は日本に留学経験のあるネパール人の医師で、隣席に座って次々現れる山の説明をしてくださった

         
          ブッダエアーって、怖いような怖くないような。険しい山岳地帯を飛ぶので、ここのパイロットは世界一腕がよいとか。     


   写真入り馬場の外国詠 19(2009年7月)
    【ムスタン】『ゆふがほの家』(2006年刊)91頁~
    参加者:泉可奈、T・S、T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:渡部 慧子 司会とまとめ:鹿取 未放

                 
152 八千メートルの山の背碧空のほかはなしあなさびし虚空なす時間のありぬ

(レポート)
 ヒマラヤの八千メートル級の山々が厳しい線をみせてつらなり、そこに碧空があるのみで広大な景を前にしている。もう自分の思念もちっぽけで物に寄せて何かを思うことも不可能なほどなのだろう。「八千メートルの山の背碧空のほかはなし」「あなさびし」「虚空なす時間のありぬ」と「 」三つをそれぞれ独立させ、無いと言って有るという。上の句、下の句を逆接に頼らず「あなさびし」という独立句を挟み、繋がりのほどは読者に任せているのであろう。
 この構成の妙は一首の不思議な力の所以となっている。大きな内容を鑑賞しがたく構成の面から近づいてみたが「あなさびし」に注目してみると、存在の寂しさとは異質の「さびし」としてよく据わっており、はかりしれない宇宙を「虚空なす時間のありぬ」と透徹した眼と力を感じる一首である。(慧子)    


(まとめ)
 小型機に乗ってジョムソンからポカラに移動している一連の中にある歌。ダウラギリ、マチャプチャレ、アンナプルナなどの山名が一連に出てくる。それら八千メートルを超えて聳える山の背には真っ青な空が見えている。そして空しか見えない。しかもその空には「虚空なす時間」があるという。「虚空」を改めて「広辞苑」で引いてみると仏教語で「何もない空間」を指すとある。何もない空間に、作者は長い長い宇宙的な時間をみているのである。
 156番歌「生を継ぎはじめて長き人間の時間を思ふヒマラヤに居て」にも関連するが崇高な山の姿にふれて、それらヒマラヤの山脈が形成された気の遠くなるような宇宙的時間を思ったのであろう。また、その後に生まれた人類の歩んできた長い長い時間をも思うのであろう。「あなさびし」はそんな宇宙的時間にふれた詠嘆のように思われる。(鹿取)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渡辺松男の一首鑑賞 2の237

2020-01-14 17:09:55 | 短歌の鑑賞
  渡辺松男研究2の30(2019年12月実施)
     Ⅳ〈月震〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P151~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子    司会と記録:鹿取未放

237 火の牡牛火をふかく秘めしずかなり砂ながれゆく刀水の縁(ふち)

          (レポート)
 激しさをうちに持つ闘牛の例があるが、掲出歌の牝牛は火を深く秘めながらしずかなのだ。情熱のようなものかもしれないが、激しさを秘めている人の喩としての牝牛であろう。かつてどういう場に燃え上がったのか、またそんなことが予見されるのか、とにかく今は砂のながれのようにしずかな意識で、刀水の縁にいるということだろう。ちなみに刀水は利根川の異称。(慧子)


         (紙上意見) 
 はじめ、これは刀鍛冶の場面をうたったのだと思った。刀を鍛える火が牡牛のように見えたのだと。そして、下句を読み、いやこれは刀を鑑賞している場面ではないかと思い直した。けれど、「刀水」がわからず悩んだ末、刀鍛冶の娘であった友人を思い出し、聞いてみた。すると、「刀水」という言葉はないようだが関わりを調べてくれるということに。その後、関東出身の彼女から、「刀水」は利根川のことで、ポイントは「火の牡牛」ではないかと指摘された。なるほど。「火の牡牛」をネットで検索すると、すぐに出てきたのが「ファラリスの牡牛」という、残酷な拷問道具。これかもしれないと思ったが、「ファラリスの牡牛」を調べても、「火の牡牛」と言うとはどこにも出てこないので、これだとは言いきれない。そういえば、利根川の源流部に火山が多いから、「火の牡牛」にはこのイメージもあるかもしれないな。などなど、悩みながら何度も読み直しているうちに、この様々なイメージを喚起させるのが、この歌の力で、これと決める必要はないのだと思い至った。「火の牡牛」は刀を鍛える火であり、ファラリスの牡牛であり、その牡牛に入れられ焼かれそうな自分であり、自分の住む土地を囲む今は静かな火山であり、作者はそれらの様々な火を内に秘めながら、利根川の縁にたたずんでいるのだ。「砂ながれゆく」とあるのは作者の無常観か。苦しみと怒りを内に秘め、もうすぐ爆発しそうな作者が見える。たぶん、この頃、作者は苦しい意に添わぬ仕事を負わされていたのだと思います。(菅原)
 

      (当日意見)
★漢詩みたいで格調がありますね。「刀水」って字面もいいですね。使いたくなる名
 前ですね。(A・K)
★「刀」って文字の力がすごいですね。薄くて怜悧で言葉が張っている。これ、「利
 根川の縁」だったらだらっとしてつまらない歌になりますね。(鹿取)
★この牡牛は作者ですよね。(A・K)
★そうですね、驢馬が作者だと通俗的になりますが、ここの牡牛は作者でもいいか
 な。うちに火を秘めて刀水の縁に立っている。その火の強靱さが「刀」ととって
 もよく釣り合っている。第1歌集の『寒気氾濫』には利根川と萩原朔太郎を組み 
 合わせた歌もありますから、この牡牛、朔太郎と読んでもいいかなとも思います。
 朔太郎は『月に吠える』のような口語のモダンなな詩も作っていますが、文語の
 格調高い古風でヒロイックな詩も作っています。そういう詩に「大渡橋」など利 
 根川を詠った詩編が何編かあります。松男さんもそういう詩が好きみたいです。
 ですから、この「火の牡牛」は熱い詩魂を内に秘めた作者でもあり、朔太郎でも
 あると思います。この一連、ハムスターから始まって象が出てきて亀が出てきて、
 驢が出て最後がかっこいい牡牛。並べ方にも細心の注意が払われているのでしょ うね。(鹿取)


          (後日意見)  
 鹿取の当日発言中の朔太郎を詠ったうたは次のもの。
鷹の目の朔太郎行く利根川の彼岸の桜此岸の桜   『寒気氾濫』
この歌、此岸にあって桜を見ているのは作者なのだろう。渡辺松男は萩原朔太郎がとても気に掛かる存在のようで、アンビバレントな感情をいだいているようだ。以前「アンチ朔太郎」という渡辺松男論を「かりん」に発表したことがあるが、松男さんから「アンチというほど嫌いではないです」というお返事をいただいた。(鹿取)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渡辺松男の一首鑑賞 2の236

2020-01-13 19:26:08 | 短歌の鑑賞
  渡辺松男研究2の30(2019年12月実施)
     Ⅳ〈月震〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P151~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子    司会と記録:鹿取未放

236 驢(ろ)と生まれただ水草をおもいみるまずしさよ吾は鞭打たれいし
   
            (レポート)
 驢と生まれてうつむきがちの生を生きているので、ものを思う時など下にあるものを自ずと見て水草を思ったりしている。それは貧しいことであるよと言う。水の流れのままに揺れる水草を思うとは貧しいながらも貧しさに汚れていない感じがある。さらに水草のその様子は自然なのだと作中主体は思っていよう。だからというのでは無いが、鞭に撃たれいしということも、悲愴でも愚痴でも無くつぶやきのようである。(慧子)

           (紙上意見) 
 粗食に耐え、丈夫なロバは人間にとっては都合のいい家畜だが、そのロバと生まれるのは哀れだ。けれど哀れと思うことも知らず、ただわずかな水と草を与えられるのを待ち、働かされている。なんとまずしいことか。けれど、自分もロバと同じように、生活の為に、上司や社会や周りの要求のままに、使われ働かされているではないか。そのことに気付き、作者は鞭打たれているのだろう。結句の言い切りの強さに作者の苦しさが表されていて、読むものに、自分も同じロバかもしれぬと思わせる歌。この作者にしては、わかりやすく強い歌だが、それほどにこの時期の作者は苦しい思いで働いていたのだろう。(菅原)

            (当日意見)
★菅原さんのレポートを読んでいると、この作者の歌にしてはわかりやすいなと思
 いました。(岡東)
★松男さんの歌は、なるべく書いてある通りに読もうと思っているので、この人は
 驢馬に生まれたんですね。それで餌である水草のことばかり思って生きている。
 そら、働けと言ってむち打たれていたものだ。なぜ結句が過去になるのか、今は
 鞭打たれないのか、ちょっとわからない。水草は餌ではなく水草の生える水辺で
 驢馬にとっての唯一の憩いの場かもしれないけど。作者の苦しい仕事の投影とい
 うのはその通りなんだけど、敢えて言わなくてもいいかと。それとも解釈だから
 言っておく必要があるのかな。でも驢馬=作者と解釈すると歌は平板でつまらな
 くなる。(鹿取)
★貧しさよは、水草を思い見ることしかできなかったことを言っている。鞭打たれ
 たのが過去なのは、今だったら何か対処ができるのに、昔は鞭打たれるままでし
 か無かった。(泉)
★水草は餌ではなくて、たかがしれたもんだけど、それを思い浮かべている。だけ
 ど三句に「まずしさよ」っていうのはいらないだろうと思う。「まずしさよ」がな 
 くても、力の弱い使役される頼りない存在だって事は出ています。下の句もおん
 なじ事を言っている。「鞭打たれいし」ってダメ押しでしょう。みんな同じ調子で 
 すよね。(A・K)
★もし水草が餌でなかったら、それを思い見るかすかな詩的な余白があるわけです
 よね。ふっくらとした何かがここにはあると思うんですが。(鹿取)
★水草は清らかで流れていて。驢馬は抵抗できないわびしい存在だけど、水草を思 
 うことはできる。願いとか祈りがここにはある。でも、貧しさ、鞭打たれという
 のは肯えない。この作者がそんなことをわからない訳はないので、私にわからな
 いもっと深い何かがあるのでしょうか。(A・K)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする