かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 2の235

2020-01-12 14:17:45 | 短歌の鑑賞
  渡辺松男研究2の30(2019年12月実施)
     Ⅳ〈月震〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P151~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子    司会と記録:鹿取未放


235 全身をくねらせ花粉飛ばす杉ひたぶるに木もよごれて生くる

          ( レポート)
 自然の理のなかに次世代があり、ひたすら花粉を飛ばす杉はなりふりかまわず汚れて生きているのだという。仰ぎ見られたり、神木と呼ばれたりするのは、年輪を重ねてのことだろう。「全身をくねらせ」という初句にはどうもなじめないが、234番歌「家畜象膚擦りよせて過ぎ行けばじんじんと痒き木のじんましん」につづき、木を私たちと同じ地平に見ているのだろう。(慧子)


           (紙上意見) 
 杉が全身をくねらせ花粉を飛ばす姿を、作者は見ている。けれどそれを「ひたぶるによごれて生くる」と感じるのは、作者自身を投影しているのだろう。『木よ、おまえも私もこうやって懸命に生きるしかないのだなあ。』という苦しい感慨か。花粉を飛ばす杉を見たことがあるが、私には何とも嬉しそうに見えたのだが… (菅原)


        (当日意見)
★普通、木というのはただ立っていると思われているけど、花粉を飛ばすときには
 全身をくねらせるんだっていうのですね。そうすることで花粉を飛ばしやすくす
 る。そういう行為を汚れっていうふうに作者は受け取っている訳ですが。下の句
 がやや理屈かなあと言う気もしますが。(鹿取)
★わかりやすい歌ですね。全身をくねらせて花粉を飛ばすって説得力がある。納得 
 しますね。映像的で。まあ、下の句は理詰めではありますが。(A・K)
★「木も」というと〈われ〉も汚れているが……ということになりますが、「木は」
 で止めてもよかったような気もします。そうしても〈われ〉はかすかににおいま
 すから。もっとも、ご本人は君たちは何もわかってないなあ、なにくだらないこ
 といいあってるんだっと思って読まれるのでしょうけれど。(一同、笑い)(鹿取)

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渡辺松男の一首鑑賞 2の234

2020-01-11 17:43:06 | 短歌の鑑賞
  渡辺松男研究2の30(2019年12月実施)
     Ⅳ〈月震〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P151~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子    司会と記録:鹿取未放


234 家畜象膚擦りよせて過ぎ行けばじんじんと痒き木のじんましん

          (レポート)
 聞き慣れない家畜象とはタイかカンボジアの国のことだろう。木に膚をすりよせることがあるようだ。すると木は痒くなるらしい。樹皮に病があったのか、象アレルギーなのかわからないが、内容よりも下句のオノマトペからじんましんへつながる韻をうたったのか。しかしながら家畜象から木のじんましんへよく発展させたものだとおどろく。(慧子)


           (紙上意見) 
 東南アジアのどこかでは、象を木材などの運搬作業のために飼っているようなので、その象が木の間を必死で進んでいく場面だろう。あのしわしわのごわごわの象にすり寄られたら木も痛がゆくて蕁麻疹が出ようというものか。「じんじんと」に木と一緒に痛くかゆくなるような実感があり、同時に「家畜象」によって象に哀れを感じさせる歌。(菅原)


       (当日意見)
★何かを運搬している象なのでしょうか、痒いので通りすがりの木に膚をすり寄せ
 て痒いところをこすっている。「擦りよせ」って能動的だから。それで木が感染し
 て痒くなってしまった。(鹿取)
★発想が独特で素晴らしいですね。木がじんましんになったって。「木のじんまし
 ん」の「の」は主格ですか?(A・K)
★はい、主格ですね。木もじんましんになって痒いんですね。「じんじん」「じんま
 しん」という韻も面白いですね。(鹿取)


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渡辺松男の一首鑑賞 2の233

2020-01-10 18:09:55 | 短歌の鑑賞
  渡辺松男研究2の30(2019年12月実施)
     Ⅳ〈月震〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P151~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子    司会と記録:鹿取未放


233 交尾終えぐらんぐらんとする生を木の根より深くもぐろうとする

           (レポート)
 232番歌「じゃんじゃんと御輿担がれゆきたれど泥中を這う亀のリビドー」に続き、主体は亀であろうか。交尾の後の感覚をぐらんぐらんと表現して巧みなオノマトペだと思う。そのぐらんぐらんという状態をひっぱりながら木の根より深くもぐろうとしているという。深くもぐってどうあろうとするのか。愉悦に浸る、休息、瞑想いろいろ考えてみるに、有様として派手さのないところ、低きによりていく、そんなことを思う。(慧子)


           (紙上意見) 
 たぶん、虫が命の最後の力を振り絞り、交尾し、卵を産むために地中に潜っていこうとしている場面だろう。「ぐらんぐらんと」がすごい。ただ、「生を」の「を」が気になる。生をもって、生を抱えて、ということだろうか。(菅原)


        (当日意見)
★交尾というから人間じゃ無いですよね。(泉)
★菅原さんは虫って書いてますが、やっぱり前の歌からの続きだと亀ですかね。そ
 うするとリビドーが性衝動に限定されそうで嫌ですが。「生を」はいけないですか
 ね。私は「生を」と大きく直截につかんだところがいいと思うし、その生をいっ
 さいがっさいそのまんま潜るんですね。死ぬのかもしれないけど、何のためにと
 いう目的は無くてもいい気がします。ただ、具体は書いていないけど命を潜る、 
リアルに行動の切実さが伝わってくる。(鹿取)
★生ま生まとした感じが伝わってきますね。実感というか体感というか。抜け殻み
 たいになって。生きる根源的な強さというか。ねばーとして。(A・K)
★交尾を終えて精根尽きたような体が「ぐらんぐらん」で、リアリティのある抜群
 のオノマトペですね。それにしてもこの一連はオノマトペが独特で面白いですね。
 受け売りですが、文章心理学の波多野完治が「オノマトペは主観と客観の中間」 
 と言っているそうです。ぞろぞろ、まろまろ、へとへと、じゃんじゃん、ぐらん 
 ぐらん、じんじんなどが一連には出てきますね。オノマトペを意識した一連なの
 でしょうか。(鹿取)
★一首目に月震の話が来て、アカウミガメとか浜辺に卵を生みにきて砂を深く掘っ
 ているんじゃないか。そういう場面を想像しました。そういう実景に託して、も
 ちろん松男さんは何かを言ってるんだろうけど。(泉)
★私は敢えて産卵というのは省いたんですが。リビドーに帰るのではないかと。
  (慧子)
★虫が卵を産むために地中に潜っていくととりました。(岡東)
★ぐらんぐらんというオノマトペには重量があって、小さな虫では合わない気がし
 ます。まあ、それぞれの取りようですが。松村由利子さんが亀の産卵を題材にう
 たっていて、それがにべもない歌で面白かったです。亀でさえ産みの苦しみに涙
 をうかべるのねって巷では情緒的に解釈しているけど、あれは浸透圧の調節のた
 めなんだよって。(鹿取)


      (後日意見))
 鹿取の当日発言にある松村由利子の歌は、次のもの。(鹿取)
産卵のウミガメの流す涙液は浸透圧の調節のため  『鳥女』




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渡辺松男の一首鑑賞 2の232

2020-01-09 17:10:02 | 短歌の鑑賞
  渡辺松男研究2の30(2019年12月実施)
     Ⅳ〈月震〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P151~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子    司会と記録:鹿取未放


232 じゃんじゃんと御輿担がれゆきたれど泥中を這う亀のリビドー

          (レポート)
 その地域の人々の持つ力が催しや祭りを動かし、また国家へ波及することもあるだろう。ある見方をすれば、社会の状態はエネルギーの所産といえるかもしれない。ここでは神輿が担がれ、担いでいる人々のエネルギーが満ちている様子。かたわらの沼か池か、そこの泥中を這う亀のリビドーがいて泥から首を伸ばし騒がしい方を見るわけではなさそうだ。リビドーはどのような対象に生の根源の力を発揮するのか、今は静かに泥中を這っている。掲出歌の味わいは亀の名、リビドーにかかわっていよう。(慧子)(以下引用はレポートのママ)
 リビドーとは精神分析学の用語で、人間の行動の起点となる根源的欲望。フロイトによると、飢えが栄養摂取を促す原動力であるように、個人が持っているリビドーは量的に一定しており、それがある対象に向かって充填される時、さまざまな心理的機能が営まれるとする。フロイトにおいては、リビドーは性欲であり、ユングはリビドーをすべての本能からのエネルギーの本体と規定した。「新世紀百科事典」


           (紙上意見) 
 神輿に担がれてゆくのは作者であろう。はやされ、おだてられ、持ち上げられている。けれど本当はカメのように泥の中を這ってゆきたいのだという。前作と同じく、仕事や立場に疲れ、違和感を持ち、苦しんでいるのだろう。「リビドー」に切実さがある。(菅原)


           (当日意見) 
★慧子さん、せっかく「リビドー」の意味を調べられたのに、リビドーは亀の名前
 のままでいいのですか?(鹿取)
★「尾を塗中(とちゅう)に曳く」って「荘子」の「秋水編」に故事があります。 こん
 な話です。【後述】第一歌集に「生きて尾を塗中(とちゅう)に曳きてゆく 
 ものへちちよちちよと地雨ふるなり」という歌があって、出版記念会で辰巳泰子
 さんが褒められたのをよく覚えています。掲出歌もこの故事を参考にすると亀
 は自由に泥の中を這いずり回っているんですね。それはリビドーのなせる行為か
 もしれないけど。(鹿取)
★そういう故事を知っているのといないのでは、まったく解釈が違ってくるかもし
 れませんね。渡辺さんってすごい下地がありますよね。(A・K)
★哲学科だから、もちろん老荘思想も研究されたわけで、自然にこういう言葉はで
 てくるんでしょうね。(鹿取)
★故事を知らなかったので菅原さんのように解釈していましたが。神輿担いでいる
 地域の人々はエネルギーが満ちているけど、泥の中では性欲が……(泉)
★菅原さんの意見の「カメのように泥の中を這ってゆきたいのだ」というところは、
 そこまで言えるのかなあと思いました。(岡東)
★私は菅原さんの意見にほぼ賛成です。リビドーをフロイト流に性欲とか性衝動と
 かと固定して考えると迷っちゃうけど、ユング流に考えれば神輿担ぐエネルギー 
 と同じじゃないですか。故事につなげると亀は泥中を這うことで満足しているん
 です。泥中を這うことが亀にとっては生を全うすることなんです。案外亀の心中
 は明るいのかもしれません。作者は、在野で思索しながら自由に生きる道を選ん
 だ荘子に共鳴しているのでしょう。(鹿取)
★完成度の高い歌だけど、荘子を短歌で言い直したのならつまらなくなりますね。
 そういうときってどうなんでしょうね。短歌の意義はどうなんでしょう?素材と
 しては面白いと思いますが。(A・K)
★この歌は「尾を塗中(とちゅう)に曳く」を松男さん流に内面化されていて、荘
 子をダイレクトに手渡しているだけではないと思います。ただ、神輿を担ぐって
 他人をおだてる言葉でもある。逆接でつながっているので、賑やかにお祭り騒ぎ
 の政治が行われているけど、亀は泥の中を自由に泳ぎ回っているよって。そうい
 う対照的な解釈をしてしまうとつまらなくなりますね。だから対比ではないので
 しょう。(鹿取)

             
  (参考)【「荘子」秋水】 (福永光司/講談社学術文庫) より
 荘子が濮水のほとりで釣りをしていた。そこへ楚の威王が二人の家老を先行させ、命を伝えさせた(招聘させた)。「どうか国内のことすべてを、あなたにおまかせしたい(宰相になっていただきたい)」と。荘子は釣竿を手にしたまま、ふりむきもせずにたずねた。「話に聞けば、楚の国には神霊のやどった亀がいて、死んでからもう三千年にもなるという。王はそれを袱紗(ふくさ)に包み箱に収めて、霊廟(みたまや)の御殿の上に大切に保管されているとか。しかし、この亀の身になって考えれば、かれは殺されて甲羅を留めて大切にされることを望むであろうか、それとも生きながらえて泥の中で尾をひきずって自由に遊びまわることを望むであろうか」と。二人の家老が「それは、やはり生きながらえて泥の中で尾をひきずって自由に遊びまわることを望むでしょう」と答えると、荘子はいった。「帰られるがよい。わたしも尾を泥の中にひきずりながら生きていたいのだ」

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渡辺松男の一首鑑賞 2の231

2020-01-08 17:20:17 | 短歌の鑑賞
  渡辺松男研究2の30(2019年12月実施)
     Ⅳ〈月震〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P151~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子    司会と記録:鹿取未放


231 落日の重さを負えと言われしがへとへとと背をみせて亀ゆく

          (レポート)
 落日の重さを負えと亀は言われた。お噺ではあるが浦島太郎や太古には地球を背負っていると思われたりした。これらは実際の重さなのだが、掲出歌「落日の重さ」をどう解釈するかということだろう。詩的な言葉、落日へは浄化、再生、慰撫などの概念を抱く私たちだが、ここは万年を生きるとされる亀である。地球上に限りなく続く生命の歴史のその事実の重さを落日とともに負えということだろう。しかしながら、へとへとというオノマトペからは消極的に去って行くイメージが浮かぶ。   (慧子)


           (紙上意見) 
 作者は、たぶん仕事で辛い立場、状況におかれているのだろう。疲れ切ったカメの背中に共感を寄せている。切なく哀れな「へとへと」のカメは作者であろう。(菅原)


           (当日意見)
★慧子さん、「落日の重さを負え」と言われたのは亀ですか?〈われ〉ですか?
  (鹿取)
★亀です。(慧子)
★では、その場面を〈われ〉が見ている?(鹿取)
★はい。(慧子)
★わからないけど、この歌大好きです。(鹿取)
★私も好きです。自分が言われたんだとすると単純な歌になってしまう気がする。
 鶴ではだめで亀に言われたのがよい。(A・K)
★ホーキングのどの本だか忘れたけど、ともかく宇宙論の本にこんなエピソードが
 載っていました。宇宙についてあるところで講演をしたら、おばあさんが近づい
 てきて「今のお話しはとっても面白かったわ。でもね、地球は亀が背負っている
 のよ」と言ったって。亀の上に亀が乗ってというふうに数え切れない亀が地球を
 背負っているのよって。まあ、数百年前まではそう考えている人が多かった訳で
 す。この歌を詠んでいたらホーキングのこのエピソードを思い出しました。まあ、
 ここで負うのは地球ではなく落日だから太陽ですけど。(鹿取)
★これは現代詩だと思います。ぞろぞろとかまろまろとか過剰なオノマトペを使っ
 ている一方で、この歌はかっこいい上の句ですよね。それを受けて下の句は現実
 の持っている絶対的な厚みみたいなものを感じる。この下の句があるから上の句
 が生きるんじゃないか。(A・K)
★なるほどねえ。これ、亀に背負えと言っているのは、まあ、神のような絶対者で
 すよね。しかしその命令を受けている亀はへとへととゆくんですね。その落差が
 面白い。(鹿取
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