かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 221

2022-12-26 10:43:17 | 短歌の鑑賞
   2022年度版 渡辺松男研究2の29(2019年11月実施)
     Ⅳ〈悪寒〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P145~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆    司会と記録:鹿取未放


221 冷蔵庫にそっと地球儀冷やすとき家族から遠く来てしまいたり 

        (レポート) 
 いったい人はどんな理由や目的があって地球儀を冷やすのだろう。これは不思議な一首だ。何かの比喩だろうか。「家族から遠く来てしまいたり」「地球」「冷」えるというと、宇宙にいる喩えだろうか、などなど無理やり何の比喩かと想像もしてみるが、上の句の「冷蔵庫にそっと地球儀冷やすとき」には比喩とは思えない現実味があるので鑑賞に困ってしまう。
 例えばこんなドラマを思う。………… リビングかダイニングか家族の集まる部屋に地球儀があった。主人公は地球の温暖化を憂いたジョークをとばし、冷蔵庫で冷やせばいいんだよと地球儀を冷蔵庫に入れてみせた。笑ってくれるかと家族をみると、〈なんてくだらないことやってんのよ〉と皆そっぽを向く。ああ、「家族から遠く来てしまいたり」と一人寂しく呟く。 …………この一首、まことにレポーター泣かせの歌である。(泉)


      (紙上参加)
 なぜ冷蔵庫でスイカではなく地球儀を冷やすのか、わからないけれど、確かにそうしたら家族とは離れてしまう感じはありそうで不思議な面白い歌。「さようなら家族、地球の皆さん。僕は地球の喧騒に疲れてしまいました」というような思いだろうか。
   (菅原)


     (当日意見)
★来来月に観賞する歌に今日口から鳥を飛ばしたことを家族に言いそうになったという
 意味の歌があって、同じような繋がりかなと。(鹿取)
★大好きな歌です。それこそ暗喩的なものかもしれないけど。人間って家族から遠くに
 くるって瞬間ありますよ、だから家族と冷たい関係ですとかとは全然違う。地球儀っ
 て中国があってロシアがあってフランスがあって…自分が存在している。理屈ではな
 くてそれを冷蔵庫で冷やす。ああ、そうかって思いました。愛する家族から遠くき
 た、そういう根本的な存在の感じ。(A・K)


        (後日意見)
 鹿取の当日発言の鳥を飛ばす歌は、「今日われは口から鳥を飛ばせしともうすこしで家族に告げそうになる」(『泡宇宙の蛙』157頁)(鹿取)
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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 220

2022-12-25 14:13:10 | 短歌の鑑賞

   2022年度版 渡辺松男研究2の29(2019年11月実施)
     Ⅳ〈悪寒〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P145~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆    司会と記録:鹿取未放


220 鶏と睨みあってはおちつかず天高き日のフランケンシュタイン

         レポート) 
 害にならない鶏にオロオロしているその構図のユーモラスな味わいこそが一首の魅力だが、「天高き日の」と季節をイメージできる視野の大きな一語を据えることで、ユーモラスな一場面にさらに物語性が顕ちあがる。フランケンシュタインを調べると「本来はM.W.シェリー原作の『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』(1818)に登場する科学者ビクトル・フランケンシュタイン男爵の姓。今日ではもっぱら怪奇映画のスクリーンを通じて、同男爵が死体から造った〈怪物〉の通称ともされている」(平凡社世界大百科事典)とあるが、一首のフランケンシュタインはその男爵なのか、男爵の造った怪物なのか、全く別のものなのか、それとも喩か。あるいはボリス・カーロフ主演・ジェームズ・ホエール監督の映画の一場面なのか。そしてまた、フランケンシュタインが落ち着かない理由は何なのか、なんだろう、そう疑問を抱かせることが、読者を連作〈悪寒〉へと引き込むいい導入歌になっているのだろう。(泉)


       (紙上参加)
 ドラキュラ、狼男と並ぶ、怪奇物語の主役であるフランケンシュタイン。どこか怖さより哀れさが感じられる。大きな体に醜さへの恥じらいを持つ弱い心を抱えている。そして、怪奇物語に似合うのは嵐やくらがり。ところがそのフランケンシュタインが秋晴れの下で、小さくても恐れを知らぬ、恐竜の裔らしき眼光の鶏と睨みあいおろおろしている。なんとも気の毒で滑稽な場面の面白い歌。作者はフランケンシュタインに自らを重ねているのか、それとも愚かな人によって生み出された怪物など、自然が生み出した鶏にすらかないはしないと言いたいのか。(菅原)

         (当日意見)
★泉さんのレポートのように原作や映画の情報を知って歌を読むのと知らないで読むの
 とでは違うと思うのですが、私は全く情報がないので、何も無しで歌と向き合ってい
 ます。菅原さんの最後の3行、ここまで読むんですかね。(A・K)
★情報を知って読むのと知らずに読むのとそれぞれ良い点、悪い点があるのでしょう
 ね。情報がたくさん有りすぎると却って作者の思いに届かなかったりすることもあり
 ますよね。情報を知っているのは悪いことではないけど、歌に向き合うときはいった
 ん忘れた方がいい場合もありますね。でも、菅原さんの「気の毒で滑稽」あたりは賛
 成で爽快な気分で読みました。(鹿取)
★醜さへの恥じらいとかフランケンシュタインに深く寄り添っていますよね。
   (A・K)
★そうですね、その部分は原作に書かれているのか、菅原さんの独創か。どちらにして
 も醜さを恥じらいつつ真っ昼間に鶏とにらみ合っている図は面白いですけど。
   (鹿取)
★「落ち着かず」にフランケンシュタインの存在の何かが出ているように思います。そ
 れにしてもここにフランケンシュタインをもってくるかと思いますね。字余りなんだ
 けどぴたっときますよね。(A・K)
★天高き日の設定もいいですよね。(鹿取)
★晴朗な感じがしますね。自分と重ねているのかなあ。作品と作者を重ねてしまったら
 陳腐になるような。フランケンシュタインが何かの喩ととったらつまんなくなるんじ
 ゃない。鶏の歌で良いのは佐藤佐太郎、宮柊二 、俳句では加藤楸邨です。
   (A・K)


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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 219

2022-12-24 09:47:49 | 短歌の鑑賞
   2022年度用 渡辺松男研究2の28(2019年10月実施)
     Ⅳ〈水〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P138~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、鹿取未放
     レポーター:岡東和子    司会と記録:鹿取未放


219 まなうらに波ゆれている沼のあり波しずまりしとき さかな落つ

    (レポート)
 作者は瞼を閉じて、波がゆれている沼を眼の奥に見ている。「波がしずまつたとき」というのは、同時に作者の心もしずまつたのだろう。そして次の瞬間魚が落ちたというのだ。下句は九・五になつている。さらに九の後に一枡あけることで、作者の驚きが強調されていると思う。(岡東)

       (紙上参加意見)
 眼を閉じて寝ようとしているが閉じた目の前がゆらゆらして落ち着かず眠れない。ようやく落ち着いて。眠りに落ちました。ということか。結句の「さかな落つ」がすとんと眠りに落ちていく感じをうまく表しているように思う。(菅原)

         (当日発言)
★「さかな落つ」がそうきたかという感じ。(真帆)
★岡東さんと菅原さんの解釈はまったく違いますね。(A・K)
★哲学的な一首かなあと思いました。松本ノリ子さんが大会に出された歌で白内障だっ
 たか緑内障だったか、病の目の底にふたひらの沼があるというのがあったのですが、
 そのような沼を思いました。波が静まったとき縁(えにし)が結ばれたように魚が落
 ちる。何か魚が見えますね。美しくて奥が深くて。魚は沼の中から更に底に落ちてい
 るような感じがします。宇宙のいろんなものが合致して、そこに魚が生まれてストー
 ンと落ちる。(真帆)
★ではそれは世の中にある魚とは違うのね。魚はとってもリアルなイメージだけど。
  (鹿取)
★はい、何か幻想的ですね。(真帆)
★九、五って岡東さん読まれたけど、句またがり七・七だと思います。自分の中に混沌
 としているものがある。それがストーンと魚が落ちたとは明晰になったということ。
 魚は沼の中にある核のようなもの、その魚が落ちたとき核が見えた。暗喩ですよね。
 「さかな落つ」がものすごく上手いと思いました。赤い魚のイメージです。象徴とい
 うかシンボライズされたもの。(A・K)

        (後日意見)
 「底翳とうさびしき小さき沼二つもてば今年の青葉いとおし 松本ノリ子」(2003年:第二十五回かりん全国大会の最高得点賞歌です。「かりん」三十年史P.123より)(真帆)
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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 218

2022-12-23 10:36:32 | 短歌の鑑賞
   2022年度用 渡辺松男研究2の28(2019年10月実施)
     Ⅳ〈水〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P138~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、鹿取未放
     レポーター:岡東和子    司会と記録:鹿取未放


218 しずかなる地雨なれども無縁坂あちらこちらゆ水の手が伸ぶ

      (レポート)
 作者は雨の中、無縁坂を歩いている。あちらこちらから水の手が伸びてくるというのは人生の岐路にあることの比喩だろうか。初句の「しずかなる」が効果的である。(岡東)

      (紙上参加意見)
 しとしと雨が、じわじわと沁みてあたりを濡らしてゆく。それだけなのだが、「無縁坂」によって、魔物のように水の手がうごめきだし読者を異界へ誘い出す。(菅原)


      (当日発言)
★地雨は、ずっと降り続く雨のこと。(真帆)
★無縁坂は不忍池から岩崎邸に沿って登る道で東京大学に突き当たるそうです。沿道に
 無縁寺というのがあったそうです。(岡東)
★毎日雨が降り続いているので、大雨ではないけれども水が染み出てきてあちらこちら
 から坂道に筋のように流れ出て来るのですね。情景はよく見えますね。無縁坂なんだ
 けど水があちらこちらから手を差し伸べてくる。菅原さんのように魔物が異界へ誘い
 出すという解釈もありますが。(鹿取)
★どこにあるかとか何も知らなくても、無縁坂って字面でも分かりますね。(A・K)
★「無縁坂」ってさだまさしの歌ですね。「忍ぶ不忍無縁坂かみしめる様なささやかな
 僕の母の人生」。道行文みたいに不忍池から無縁坂と地名を折り込んでいるんです
 ね。手を差し伸べているようにも、魔の手を伸ばしているようにもとれますね。
   (鹿取)


     (後日発言)
 無縁坂を久しぶりに訪ねてみた。岩崎邸の煉瓦色の塀に沿った道は思っていたよりも短かった。引き返すときに見たらビルの間にスカイツリーが瞬いていた。(鹿取)
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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 217

2022-12-22 10:16:50 | 短歌の鑑賞
   2022年度用 渡辺松男研究2の28(2019年10月実施)
     Ⅳ〈水〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P138~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、鹿取未放
     レポーター:岡東和子    司会と記録:鹿取未放


217 にごる水とどこおる水くらき水 にんげんがみな病気だなんて

       (レポート)
 作者はまず、不健康になりそうな水を三種類挙げている。そして一マスあけて「にんげんがみな病気だなんて」と、強調とも反語ともとれる終わり方をしている。水は苦しみにつながるという事か。(岡東)


      (紙上参加意見)
 人体はほぼ水でできている。その水、血や体液に問題があれば病気になる。そしてほとんどの人は病気なのだ。作者は体も心も病んでいる人間存在を悲しんでいるのだろう。 (菅原)

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