かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 318

2024-09-13 10:24:18 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 渡辺松男研究38(2016年5月実施)
    【虚空のズボン】『寒気氾濫』(1997年)128頁~
     参加者:S・I、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、
        Y・N、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:S・I   司会と記録:鹿取 未放


318 断面というもの宙にきらめかせ少女は竹刀振りおろしたり

      (レポート)
 これは少女が力を込めて、思い切り竹刀を振り下ろす瞬間を詠んだ歌である。普通の肉眼では、竹刀が大きく振られる一瞬の動きとしか捉えられないが、もし、一秒間に1000億フレームの撮影が可能なハイスピードカメラでみれば、まさに光の波が空間に断面を生み、宙に光の乱舞がみられるだろう。視覚には瞬間としか思えないものをマクロに引き延ばし、描写する手法は葛飾北斎の『富嶽三十六景』ではみられるが、短歌作品では稀ではないだろうか。(S・I)
  ハイスピードカメラ:1秒間に100枚以上撮影できるカメラを「高速度カメラ = ハ
            イスピードカメラ」と呼んでいる。今のところ、20,000,000
            コマ/秒までの高速度カメラが市販されている。 
                 (Wikipediaその他のネット検索より)        
  富嶽三十六景:波頭が崩れるさまは常人が見る限り、抽象表現としかとれないが、
          ハ イスピードカメラなどで撮影された波と比較すると、それが写
          実的に 優れた静止画であることが確かめられる。(Wikipedia)

【レポートにはここに北斎の絵画2枚が載っていますが、著作権の関係でブログでは省略します。】


     (後日意見)
 レポーターのハイスピードカメラという見方は、とても面白い鑑賞である。しかしそういうものを援用しなくとも、竹刀を振り下ろす動作によって空間がまっぷたつに切れ、その断面が美しい光に輝く様はこの歌を読んだ瞬間に眼前に見えるものである。少なくとも、私には昔からこの歌を読む度に見えていた映像である。いわば科学を先取りするのが詩の力で、渡辺松男はここでその力を見せてくれているのではなかろうか。竹刀を振り下ろすのが少女だという設定がすばらしく、鮮やかな歌である。ところで『蝶』(2011年刊)にはこんな歌がある。〈竹刀ふりくうかんにだんりよく感ぜしはくうかんに亀裂はひるちよくぜん〉(鹿取)


    (後日意見)に対する反論(2016年8月)
(後日意見)では、掲出歌の詩的真実は科学を援用しなくても伝わり、むしろ科学を先取りしているのではないか、ということを述べておられる。たしかに詩は永遠であり、科学は常に上書きされる宿命をもつ、が、人間は「真・善・美」を求めてやまない存在であり、それぞれ次元が異なるだけで、「美」のほうが「真」よりも優位とは言えまい。以前、葛飾北斎の『富嶽三十六景』が、肉眼では見えない瞬間の写実画だというテレビ番組があった。北斎は雨つぶが落ちてゆく様子をじっと眺めていたという。私は北斎が、極小の瞬間を捉えていたという心眼の確かさに感銘した。それは感動したバッハの音楽が美しい数字のハーモニーであったり、『最後の晩餐』の美が計算された構図によるものであることと似ている。印象派の絵が刻々の時間を凝視し拡大したものであるなら、北斎の絵は極小化したものだろうか。絵で描かれた極小の瞬間があるとすれば、詩や短歌にもあるだろうか?
 今回の歌はそのような思いに叶った歌であった。少女が竹刀を振り下ろす「断面が美しい光に輝く様」の詩情は誰でも共感するであろう。レポーターとしては、そのようなわかりきった鑑賞は省略し、なぜ「宙にきらめかせ」という表現がくきやかで美しく感受されるのか、肉眼では見えないハイスピードカメラの瞬時が「宙にきらめかせ」という映像になるということを、一つの根拠として提示した。けして奇を衒ったのではない。ある作品の鑑賞には、様々な分野からの考察は必要であろう。科学というのも、そのような理解の一助である。少なくとも科学的な鑑賞のみを邪道だとして、排除されてはならない。むろん、このような分析や考察がなくとも、この作品のすばらしさ、この歌から受ける感動や共感は変わらないというのは自明の理である。が、それのみだけで終わったのでは、研究する場は成り立たない。研究とは、何故その歌がよいと思ったのか、互いにその根拠を示しあい、議論することによってより一層、作品の理解を深める場でもあるからである。 (S・I)
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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 317

2024-09-12 14:51:20 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 渡辺松男研究38(2016年5月実施)
    【虚空のズボン】『寒気氾濫』(1997年)128頁~
     参加者:S・I、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、
        Y・N、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:S・I   司会と記録:鹿取 未放

317 あいまいな部分は風にとびてゆく疾歩にて君はひかる目となる

     (レポート)
 作中の君は性別も年齢も判らない。君は風に疾歩してあいまいな物事には囚われない、なにか人間離れして風の精霊のようでもある。リアルなのは君の目がひかっているということである。風音の「 どっどど どどうど どどうど どどう…」で始まる「風の又三郎」という童話を思い出す。風の又三郎は疾歩して風とともに現れ、去っていく。物の本で読んだのだが、宮沢賢治その人も原野を飄々と疾歩していたという。もしかして君は、宮沢賢治のように現実感の薄く、目を光らせて自然の事物と交感出来る人なのかもしれない。(S・I)


    (当日意見)
★奥さんと歩いている場面。(鈴木)
★ここで「君」と言っているのは作者自身のこと。(慧子)
★君は作者でも解釈はできると思いますが、妻なり恋人なり対象の方が面白い気がしま
 す。「あいまいな部分は風にとびてゆく」はレポーターとは違って、君が「あいまい
 な物事には囚われない」精神性を言っているのではなく、君が速く歩いているので輪
 郭がくっきり〈われ〉から見えなくなって、ただひかる目としてあるということだと
 思う。(鹿取)


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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 316

2024-09-11 15:34:57 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 渡辺松男研究38(2016年5月実施)
    【虚空のズボン】『寒気氾濫』(1997年)128頁~
     参加者:S・I、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、
        Y・N、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:S・I   司会と記録:鹿取 未放


316 新しき鉛筆に換え書くときに性善説ははつかあかるむ

      (後日意見)
 「新しき鉛筆に換え書く」という所作の前に必ずしも鬱屈があったとは考えにくい。もちろんあったかもしれないが、なかったかもしれない。私は前提をレポーターより軽い、ニュートラルな位置で考えた。何かがあったからではなく、ふっと新しい鉛筆に換えてものを書いてみた。きっと気持ちよく書けたのであろう。それで性善説などという考えが明るく脳裡に灯った。それまで性悪説を信奉していたとか性善説に疑いを抱いていたとか、そういうことは一切関係がない。そんなふうな理屈で繋げたら全くつまらない歌になってしまう。(鹿取)


      (レポート)
 閉塞感に陥ったとき、いままでにない所作をしたり、新しいものを得たりすることで改善の兆しを得ることがある。作者は様々な事象に性善説か、性悪説といった哲学的命題を思い悩んでいたのであろうか?あるいは、具体的にある人物から信頼感を裏切られた体験をしたのであろうか?新しい鉛筆に変えて書くという行為によって、今まで否定的だった性善説が、作者の閉塞感を打開するものとして意識されたということであろうか?(S・I)




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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 315

2024-09-10 09:34:37 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 渡辺松男研究38(2016年5月実施)
     【虚空のズボン】『寒気氾濫』(1997年)128頁~
     参加者:S・I、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、
        Y・N、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:S・I   司会と記録:鹿取 未放


315 乾燥機キコキコと鳴りおおきなるわれのパンツは回りているも

      (レポート)
 男物の大きなパンツが生き物のように、のたうち乾燥機の中で回っている。キコキコという音は物理的には乾燥機の軋む音かもしれないが、まるで回っているパンツが声をあげたかのようだ。「も」という詠嘆の終助詞は効果的で、一首がペーソスを交えたユーモラスな歌として仕上がっている。解釈は以上だが、渡辺氏のことばは、そのような現実の有り様とは異なった現存在の深いところから下りてきているように思える。この連作ではワイシャツ、ズボンがこころを表象するモノとして詠われていたが、それらのモノは作者から遊離した抜け殻ではなく、いわば作者のこころが形象化されたもので、あらゆる場所に偏在する作者自身でもあった。とすると、キコキコというつましい音は、生の根源から聞こえてくるなにか哀愁を帯びた声のようにも思える。(S・I)

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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 314

2024-09-09 10:33:28 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 渡辺松男研究38(2016年5月実施)
    【虚空のズボン】『寒気氾濫』(1997年)128頁~
     参加者:S・I、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、
        Y・N、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:S・I   司会と記録:鹿取 未放


314 股に物干し竿をさされて永遠やわれのズボンが虚空に踊る
 
    (当日意見)
★遙かなものと繋がっている。解放された感じ。(鈴木)
★これが実景だったら「虚空」などとせず、ただの「空」になるはず。(S・I)


    (後日意見)
 永遠、虚空の語選びを考えると、もちろんこの歌は日常べったりの歌ではないだろう。初句と二句は「股に物干し/竿をさされて」と切れるのだろうが、このぎくしゃくした感じから情景までがグロテスクな感じを受ける。レポートの、このズボンは〈われ〉だととることには賛成で「股に物干し竿をさされて」永遠に在り続ける〈われ〉が感じているのはやはり「苦」であろうか。
 313番歌「ワープロに太虚という字をたたきこみわれには捨つるものばかりなり」でレポーターは「太虚」の説明を【虚空(こくう)の意味であり、何もない空間、大空と訳されるが、仏教的には何も妨げるものがなく、すべてのものの存在する場所と訳される。(Wikipediaその他)】と書いている。そしてこの歌の解釈は、どうもこの定義に引っ張られすぎたように思われる。
 私はこの定義の「仏教的には」という点に疑問をもっていたが、Wikipediaには「仏教的には」の文言はなく、この定義自体は『大辞泉』からの引用と分かる。まだ『大辞泉』そのものに当たっていないが、小学館発行の中型国語辞典であるから仏教の専門書ではない。仮にこれが仏教的な定義だとして、「何も妨げるものがなく」という常識的な定義と「すべてのものの存在する」という定義には「色即是空、空即是色」と同様の質的な転換ないし飛躍があるわけで理解するのは非常に難しい。少なくとも「すべて」とか「もの」とか「存在」とかいう語を日常的な意味から切り離して、それこそ「仏教的に」極めないことには理解は不可能だろう。
 それは措いて、レポートの「捨てるべきものの具象がこのズボンである。…このズボンは作者の外に存在しているのではない、作者自身でもある」というのと「虚空に踊るズボンこそ、万物の真理を宿した真の実体である」は矛盾している。これを等式にすると「捨てるべきもの=ズボン=作者自身=万物の真理を宿した真の実体」となってしまう。この帰結は「虚空」とは「何も妨げるものがなく、すべてのものの存在する場所」という定義から導かれたのだろうが、捨てるべき煩悩であったものが「万物の真理を宿した真の実体」ではまずいだろう。(鹿取)


    (レポート)
 かって、CMで物干し竿のズボンが風に揺れている映像をみたことがある。この歌と光景は重なるが、様相は全く異なる。ズボンは前の歌にある虚空、すなわち太虚「何も妨げるものがなく、すべてのものの存在する場所」に存在している。「われには捨つるものばかりなり」の捨てるべきものの具象がこのズボンである。CM映像のズボンは永遠の存在に対して、仮象に過ぎない。虚空に踊るズボンこそ、万物の真理を宿した真の実体である。このズボンは作者の外に存在しているのではない、作者自身でもある。この歌に戸惑うのはズボンがCM映像のように現実の景物ではなく、作者の心眼が捉えた物象であることだ。氏の短歌に特徴的な存在、実存、空間といった哲学的命題、あるいはこの一連に見られるような宗教的観照といったテーマは、従来の愛や別れといった抒情的な短歌観や短歌用語で鑑賞するのは難しく、哲学的思索を深めたり、宗教体験といったことが読み手の側にも必要だと思わせる。(S・I)

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