「かわいそうな被災者」という勝手なイメージを押しつけてはいけない【
香山リカコラム】(
ダイヤモンド・オンライン) - goo ニュース
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2011年4月26日(火)08:40
4月14日、ちょうど仙台空港が再開した日に、取材で再び被災地を訪れました。
新聞やテレビは、空路の再開を機に、復興ムードの論調へ大きく転換したような気がします。しかし、被災地の方たちの心の問題は、目に見える復興とはズレが生じていると感じました。
仙台空港近辺には、いくつかの小さな町があります。町の人たちは、空港が再開してもらわないと物資が来ないので、その必要性を十分に理解しています。ただ、空港の再開を最優先したために、人手と重機はすべて空港に持っていかれたといいます。近辺の小さな町には、空港の再開とは裏腹に、復興が手つかずのまま放置されているという皮肉な現実がありました。
前回、震災から十日あまりの被災地を訪れたとき、津波の被害が大きかった地域のそばでお菓子屋さんとお寿司屋さんが営業していました。今回はそこへ立ち寄りましたが、お客さんはほとんどいません。
聞くと、震災の直後、尋常ならざる事態のなかで、お寿司屋さんは店に残っていたすべての材料を使って大量の稲荷ずしを作ったといいます。お菓子屋さんは、停電で機械を動かすことができなかったので、手作業でできる範囲でお菓子を作ったそうです。
「お互いさまだからね」
そう言って、お寿司屋さんもお菓子屋さんも被災者に無料で配りました。
ところが、時間がたって訪れたのは、お客さんが来ないという現実でした。だからといって、その方たちが「あんなことするんじゃなかった」と仰っているわけではありません。ただ、被災地の外から支援に来る人や企業はクローズアップされても、地元で支援をする商店や企業のことが語られていません。むしろ、家屋も社屋も工場も被害から免れたため保障が受けられず、材料が入らない、お客さんが来ないという三重苦に喘いでいます。
空港が再開した、仮設住宅の建設が始まったというニュースが入ると、被災地以外の人は復興が始まったと解釈すると思います。しかし現地に入ると、被災者にはそれぞれの事情があり、被災地と被災地の外との温度差はかなりあるように思えました。
被災地は復興の段階に入ったなどと、軽々には言えないのです。
「支援」は被災者のためというより自分のためにやるもの
今回の訪問で強く感じたのは、被災地には人の数だけ問題があるということです。家も家族も仕事も失った人もいれば、家族は無事で一緒に避難所生活をしている人、また被災から逃れた家で暮らしている人もいます。被害の情況もまちまちであれば、負った悲しみや苦しみへの思いも人それぞれです。それをあたかも、被災地にいる人がすべて同じような苦しみに喘いでいるかのように、一様に「頑張ろう」と言われても、それぞれの被災者の方のこころに届くのだろうか。そんな疑問を感じます。
東京に限らず、いろいろなところでチャリティーイベントが開かれています。
「いま自分にできることをやる」
その意義はよくわかりますし、イベントに来ている人や、壇上に立つ人の善意を疑うつもりは毛頭ありません。しかし、それは被災地のそれぞれの人の事情とはまったく関係のないところで行われていることを自覚することは大切でしょう。
例えば「私の歌を聞いてください」とYouTubeで自作の歌を流す。もしかしたら被災地に届いて癒される人がいるかもしれません。何かをせずにはいられないという気持ちもわかります。
ただ、被災地の人を想って何かをするのは、基本的に自分のためであること。いてもたってもいられなくなる。これはきっと被災地の人に役立つはずだ。その善意の思い込みは、それぞれの方々に必ずしも合わないこともあり、
善意の押し付けになってしまいます。このことに気がつかないと「やってあげているのに」と恩着せがましくなってしまう恐れがあります。
被災地にいる人をステレオタイプで見てしまう
まだそれほど多くはありませんが、ネット上で被災者に対する批判が見られるようになってきました。被災者がいま欲しい物を要求しただけで「何でももらおうとする」「要求が多い」というのです。
その被災者は、聞かれたから答えただけでしょう。
逆に、人をムカッとさせるようなことを言う被災者がいるのも事実です。
しかしこれは考えてみれば、ごく当たり前のことなのです。被災地にいた人は、全員が人格にすぐれた人であるはずはありません。もともと図々しい人も、だらしない人も、人に素直に対応できない人も、意地悪な人も打算的な人もいるはずです。そのような人がたまたま被災したことで、それまでの人格がすべて一新され、純粋で善良な人に変わることなどあり得ないのです。前回書いたように、人は急に変らないものです。
「辛い情況に健気に耐える善良な人たち」
私たちは、被災者に対してこんな像を作ってしまっていないでしょうか。今回の被災者は東北の人が多いので、お話を聞いていると確かに謙虚で純粋な方も多いです。ただ、その像にマッチした人を取り上げるマスコミの姿勢との相乗効果で、そうした「被災者人格」のようなものが増幅されている感は否めません。
このことは、障害者に関する問題でもよく語られています。一般に、障害を持つ人はかえって心が澄んでいると思われがちです。この人たちがちょっと俗っぽいことを言ったら、それだけで「とんでもない」という反応を示す人がいます。それだけ勝手に障害者像をつくりあげており、身障者はその期待が重荷になっている一面もあります。
私は、身体障害者のプロレス団体「ドッグレッグス」のリング・ドクターとして、彼らの興行に立ち会ったことがありますが、リングサイドの実況は「あの人は、実は風俗が好きで、たいへんな額の借金がサラ金にあり…」などと、露悪的に語ることがあります。
観客は大笑いで、会場は盛り上がります。もちろん、障害者でありながら必死に頑張るという感動的な場面もありますが、彼らは決して天使ではない。健常者と同じように、お金だって欲しい、有名にもなりたい、女も大好きだ。それなのに、ある意味で差別的な「良い人のはずだ」というレッテルを貼られてしまう。それもある意味で、差別、偏見です。その偏見をなくすために、プロレス興行を行っているのです。
自分たちが勝手に作り上げたイメージを少しでも外れると、「許せない」と叩く。
ステレオタイプな物の見方を否定されると、途端に腹を立てるのです。被災者に対する支援者の態度が、こうした方向に進んでいる恐れがあります。
長い休みを使って気を紛らわすことも必要
私たちは、すべての被災者を同一視し、勝手なイメージを作り上げていないでしょうか。その像に基づいて「心は一つです」「東北がんばれ」と連呼する押しつけがましい支援になっていないでしょうか。
被災地の多くの人は「ありがたい」と口にします。とはいえ「がんばれといっても、これ以上何をがんばればいいのかねぇ」とため息を漏らす人もいます。被災者にとってはピントの外れた支援にも、感謝の言葉を並べなければならないのが現状なのです。
仙台に滞在しているとき、地元紙を読んでいたら、タレントのミッツ・マングローブさんの記事が載っていました。内容は、彼女(彼?)が最近出したCDのプロモーションでした。ミッツさんが寄せていたのは、こんなコメントだったと思います。
「昭和の歌謡曲でも聞いて、ひととき気を紛らせてください」
震災が起こってからというもの、アーティストは「この曲で勇気を与えたい。元気を受け取ってほしい」と言うのが一般的になっています。
ミッツさんの「気を紛らわしてください」という言い方は、とても誠実だと思いました。そして、気を紛らわすというのはとても大事なことだと改めて気づきました。
現実から目を背けることは悪だと思われがちですが、ひと時の現実逃避は自分をいたわるために必要です。むしろ、現実を何とかするためにも気を紛らわす時間が必要だと私は思います。
世間は、間もなくゴールデンウィークを迎えます。
被災地の人たちはもちろんのこと、私たち被災地以外に住む人も、日々考え、情報に揺さぶられることで疲れ切っています。
原発問題をはじめ、日本の社会のありようについては、超長期にわたって考え続けていかなければならない問題です。だからこそ、現実逃避をすることでこころを平静な状態に戻すべきだと思います。
もちろん、震災のことを考え続ける人もいい。しかし、もしいまが辛い状況だと感じていたら、テレビやラジオやインターネットから離れて、震災のことを考えない日を作ってもいいと私は思います。
ひとときだけでも気を紛らし、現実逃避をすることによって、再び現実に戻ったときにこれまでと違った向き合い方ができるようになっているかもしれません。
」
被災地のことについて、このブログであまり語ったことはなかった。 せいぜい募金に応じる程度のことしかしていない自身が、何か口にするには、あまりに被害が甚大過ぎて、変に偽善的に倒れて、自身ですら嫌味に感じるのだ。
震災にショックを受けて、ネット上で可能な取り組みに、積極的に関わっている方々がいることも承知しているし、自身も同様の動きができたのかもしれないと思う。 遅いかもしれないが、遅過ぎるタイミングでないことも自覚している。
正直なところ、「できない」を決めてしまうのが、自身としては最も楽だし簡単だ。 横浜贔屓の偏屈ブログの持ち主として、ふりかかる可能性の残る「火の粉」に関して「だけ」気にして取り上げて話題とすれば良い。 ただまぁ、若干の「罪悪感」のようなものは残るが.....。
だから、このコラムを取り上げた.....と言うのでは、更に贖罪を重ねる行為に等しい。
言い訳がましいが、事実を伝えるにしても、気に入った文章を取り上げたいと思う。
考えてみれば、自身の口で被災地を語ること以上に、きっちり行動を重ねている方々の、今回取り上げたような読み物にも、あまり接していなかった。 何しろ、情報はTVから否応なく、更には間断なく流され.....続けていたし、現在も続いているのだから.....。
が、読んでみて、TVの「恐ろしさ」のようなものに、改めて気付かされたような気もする。
百聞は一見に如かずとは言うものの、目と耳を通じて入ってくる情報は、一瞬で多くの情報量を伝えられると同時に、その「切り取られた」情報が、あたかも「全て」であるような印象を持たせることが可能なのだ。 凡そ、このコラムにあるような心持は、抱きようがなかった。
その意味では、このコラムに記載された「情報」は、その言葉のまま受け止めるのが、最も有益と思える。