マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

江岸寺へ

2010年01月17日 | 身辺雑記

 勤務の無い日の1月14日(木)、自宅から徒歩3分の距離にある「江岸寺」を訪ねました。12月30日のブログに書いた2つのことを確かめたかったからです。一つは寺の名前の由来。もう一つが門前の石組の由緒。結果としてお寺の名前は川のほとりにあったから名付けられたのでは無く、石組みはかってこの下を川が流れ、簡易の橋であった事が分かりました。

 玄関に立ち、呼び鈴を押すと、住職の奥様らしき方が現れました。同じ町内会のものである事を名乗り、2つの事をお尋ねしました。門前の石組みはかって、そこを小川が流れていた名残との返事がすぐ返ってきて「この前もその事を尋ねて来た方がいらっしゃいました」との事。ちょっと驚きです。「なんでも下水を調べ歩いているそうでした」と続きます。「お寺の名前の由来はちょっと待ってくださいね」と奥へ声を掛けました。「ほうじょうさん。ほうじょうさん」と。和尚様のことを”方丈さん”と呼ばれるようです。
 その方丈さんにも身分を名乗り、来訪の目的をお話すると、突然の訪問客に対して、実に丁寧に寺の歴史を語ってくれました。
 

 曹洞宗江岸寺の開祖は、徳川家康に仕えた鳥居元忠の子の鳥居忠政。以来、鳥居家の菩提寺。創建当時はお茶の水にあったが、明暦の大火(1657年)で焼き出され現在の位置に再建された由。


           
(”外門”入り口)

      (”内門”から見る江岸寺の静かな佇まい)


      
 (”内門”前の小さな石組)

 門前の小川について再度尋ねると、ご親切にも「お上がりなさい。お見せしたいものがあります」と。恐縮しつつ、方丈様の後についていくと、案内されたのが、地図3枚の掲げられた廊下。そこには2枚の古地図に挟まれる様にして、昭和時代の本郷通り(かっての岩槻街道。俗称おなり街道)沿いの地図が貼られ、よく見ると江岸寺も記載されていて、水路も書かれていました。
 12月28日の”火の用心”の時に教えて頂いた用水路から流れ来た小川は、ここ江岸寺の門前を通り、現在の墓地の脇を流れ、幾つかの寺々を通り抜けて流れていた様子が記されていました。幸運にも、こうして、見たかった地図にあっけなく巡り会えたのでした。
 明暦の大火で焼け出された幾つかの寺が、本郷通りの直ぐ裏手に、平行するかのように、地続きで建てられたのだと思います。「江戸重ね地図」を見ても寺々が地続きになっている様子が分かります。


(江戸重ね地図より:江岸寺はじめ6つほど寺の名前が)

 初めて訪れたにも関わらず、部屋に上げて下さり、貴重な地図まで見せて頂きました。その懐の深さに感謝・感謝です。この近辺のお寺さんを尋ねたのは3度目。何時も親切に応対して頂いています。

 はっきり意識はしていなかったのですが、川や運河の来し方に関心が強いようです。春になったら、暗渠になってしまった”千川”の名残をサイクリングしたいなと思います。

 滝廉太郎作曲で名高い「箱根八里」の作詞者鳥居忱は、この鳥居家の子孫にして、ここに眠っているとの立て看板もありましたが、今日はそこには行きつけませんでした。