著者鳴海風は本作品で第16回「歴史文学賞」を受賞しました。
「円周率を計算した男」は江戸時代に活躍した和算家建部賢弘(たけべ かたひろ)の物語です。師は同じく和算家で「算聖」と呼ばれた関孝和(せき たかかず)。
賢弘と次兄の隼人は、算術家であり、甲府藩勘定吟味役でもある関孝和に入門します。しかし、早熟で剣は既に目録の腕前にあり、特にそろばんと算木算盤の技術に優れた賢弘は、師の孝和に数々の不満を持ちます。賢弘がその不満を兄隼人に語るところから物語は始まります。
賢弘曰く「あの方は私たちの面倒をまるで見てくれません」「あの方は『発微算法』以来、もう5年間も本を出しておられません」などと。
10歳で『堅亥録』を理解し、その1年後には『算俎』に書いてある内容を兄に解説までした賢弘は神童と呼ばれれ、自負心の強烈な子供でもありました。(『堅亥録』には今で言う平方数の計算の仕方が書かれ、『算俎』には円周率の計算の仕方が書かれています)
物語の前半は師関孝和と弟子建部賢弘の葛藤の物語です。既にその頃、孝和は円周率を12桁まで計算していました。賢弘は寝食を忘れ、寸暇を惜しんで21桁まで計算し、急いで師匠に報告すると孝和は「これほどお前が愚かものだったとは知らなかった」と一笑に付され、改めて師匠が『求円周率術』を貸してくれた意味は何であるのかと悩むのでした。
実は円に内接する正多角形の角数を増やしていき正確に計算出来れば、円周の長さに近づき、その結果として円周率の値はより真の値に近づいていきます。しかし師はその値のより正確な値を究める事を求めていたのではなく、円周率Π(パイ)の公式を見出せと、弟子に求めていたのでした。即ち「円理を極めて欲しいのだ」と師は語ります。
物語の後半は、円理を求めて苦悩する賢弘の実像に迫ります。
宝保5年(1708年)関孝和は没し、新宿区牛込七軒町浄輪寺に葬られます。その3年後、関孝和、建部賢弘の研究成果を網羅した『大成算経』が次兄建部隼人の編鑽により完成します。賢弘は8代将軍吉宗に仕え暦法の研究を命じら、多忙の日々、執拗に円理の研究を進めるも、円理を究めることが出来ません。
そんなある日、師の天才関孝和は演繹的に円理を求めよと語っていたのに対し、天才ではない自分は、やはり円周率をより正確に計算し帰納的に円理を究めようと、最後の気力を振り絞り膨大な計算に取り組み始めます。この辺りが鬼気迫るものがあり、読んでいてゾクゾクする場面です。
漸く発見したΠの入る公式は次の式に登場します。因みに書いてみますと
となります。
1722年に発見されたこの公式、西洋では、オイラーがベルヌーイに宛てた、1737年の書簡に初めて見られるもので、賢弘の発見に遅れる事15年です。
賢弘は究めたばかりの円理を『綴術算経』としてまとめ、吉宗に献上。献上された本は今でも内閣文庫に保存されているそうです。
数多くある和算小説の中で、ここまで和算家の発見に至る苦悩を描いた本は珍しいでしょう。読み終えて興奮冷めやらぬものがありました。