向丘高校の元同僚の I さんは現在桐ヶ丘高校勤務にして私のコンピュータの師匠、2月3日(月)、そのコンピュータでの頼みごとがあり、11時20分に桐ヶ丘高校に行く約束をしていた。約束後、岩槻街道は赤羽を通るので、赤羽から桐ヶ丘台へと昇るルートで、自宅から岩槻街道を”探索”しながら桐ヶ丘高校へ向かおうと決めた。
岩槻街道は日光御成街道とも呼ばれ、歴代将軍が日光東照宮へ参詣に出向いた時の利用街道。江戸城大手門から出発したというから、実質的には御成街道の出発点は江戸城というべきかも知れないが、Wikipediaによれば、岩槻街道の出発点は本郷追分で、終点が幸手宿とある。では岩槻街道はどの道を通っていたのか。これが意外に難しい点を残している様に私には思えた。現在の道でいえば、飛鳥山を右に見て455号を真っ直ぐ進み、音無橋で音無川を越え、中十条で455号(本郷通り)と別れて右方向へと進路を取り、赤羽まで続く道を北へ進めばそれで良し、と単純に考えそうだが、多分そうではないだろう。その詳細をも調べながらと考えていた。”探索”などと書いたのはその意味。 3日9時20分自宅発。目的地到着目標が11時20分なので、街道沿いの神社仏閣への”寄り道”は極力避けようと考えての出発だった。
本当は「0」m地点から出発したかったが、時間の関係でそこもショートカット。自宅から飛鳥山までは都道455号を行く。飛鳥山では左側から来る明治通りと合流し、455号は明治通りとは一瞬の重複の後、50m先で直ぐに明治通りとは袂を分かつ。岩槻街道はそのまま455号を行ったと思いがちだがサニアラズ。台地を明治通り沿いに下ったはず(現在の京浜東北線のガード下あたりを通っていたはず)。
何故こんなことを書くのか。江戸時代には、台地を流れる音無川に橋を架け、それを越えるよりも、台地を下り、より低いところで音無川を越えたはずだからだ。
街道は、川越えの後、今度は昇り返し台地を目指し坂を上った。その坂は2つ考えられる。権現坂と王子大坂。私は王子大坂だったと思う。理由はこちらの方が緩やかな坂だから。という理由で私は王子大坂を昇った。(写真:王子大坂) 台地上に出て北に進むと、先ほど別れた455号と合流する、しかし300mも行かないうちに道は中十条で二股に別れる。左に行けば455号。右すれば460号、ここで私は少し迷ったが右側の道を選んだ。車が2台通れるほどの比較的狭い道で、これこそ江戸時代の街道に相応しいとも思えたからだ。ここからは街道らしい雰囲気が感じられるが、中山道の様な街並はない。
環状7号線を超え、埼京線を左に見る辺りで、街道は台地を下り始め、埼京線のガードを潜って平らな道に出た。赤羽まで行くと約束の時間に遅刻しそうになり、赤羽駅はるか手前で赤羽台地に昇り、桐ヶ丘高校着11時21分。私が37年前に勤めた城北高校は外観的には大きな変化を見せず、私を迎えてくれた。
(付記。一里塚近辺にあると思われた4Kmの距離標識は何故か上半分以上が無くなっていた)
以下に地図等掲示します。
(中十条の分岐点。右岩槻街道)
(王子付近。現在の地図上に青線で岩槻街道を示す。音無川手前を明治通り沿いに下る)
(安政時代の江戸の地図。飛鳥山の上の黄色い線が岩槻街道。右端で回り込む様に川側へと下り、音無し川を越えると左にカーブし、図の上(台地側)へと続いている)
(455号=本郷通り4km付近の距離標識は壊されている)