2月16日(日)の今朝、富士神社のラジオ体操はお休み。そこで、2日前のブログに書いた、赤羽は宝憧院(ほうどういん)付近にあるという”左板橋街道と右岩槻街道の道標”を発見したくて、朝6時10分自宅を出発した。南北線「本駒込」⇒「赤羽岩淵」→(徒歩)→(宝憧院)→(赤羽本町通り)→(徒歩)→JR「赤羽」⇒「駒込」と一筆書き周遊をして来た。
「赤羽岩淵」で下車し、宝憧院へと向かう道にはまだ多くの雪が残っていたが、寺前にある下写真の道標を簡単に発見。その上には”宝憧院前の道標”の掲示板があった。
下写真は不鮮明でもあり、提示版の説明文の概略を綴ると、
『道標は江戸時代の元文年間に僧侶了運によって建立されました。宝憧院前は板橋道が日光・岩槻道と合流する位置でしたので、銘文には「東 川口善光寺道 日光岩付(ソノママ)道」・「西 西国富士道 板橋道」・「南 江戸道」と刻まれています』とあり、日光・岩槻道が岩淵から川口へと船で渡り、鳩ヶ谷・大門・岩槻の宿場を経て幸手宿で日光街道に合流する道筋とも書かれている。
この碑を発見した喜びもあったが、3日前にこの寺前を通り、見逃してしまった自らの迂闊さに忸怩たるものもあり、喜びも半ば。 帰りは「南 江戸道」方向にある本庁町通りを歩きながら、新幹線の向こう側に建つビルを望んで、岩槻街道がこちらまで一直線に繋がっていたことを直観した。大正初期に造られた鉄道(多分京浜東北線)によって岩槻道が分断されたことを確信した。帰宅後地図で調べた。それを右の図で示すことにする、。
A⇔B と C⇔D(本町通り)はともに岩槻街道。Eは宝憧院。岩槻街道は日本橋側からA→B→C→D→Eと進み、Eの宝憧院前で板橋道と合流し、右折していたのだ。鉄道で分断された様子が読み取れる。
何処で右折しようと、どうでも良いことだが、物好きの詮索事である。