《大志満入口)
9月15日(火)17時30分から新宿にある小田急ハルク8階の「大志満」で懐石料理“加賀御膳”を食した。集いし人は、向丘高校の元同僚島田さんと田中さんと私。この3人ではよく食事をしたり、温泉旅行に出掛けたりしていたが、この数年は会うことが珍しくなり、2年振りの再会であり懐石だった。久しぶりに会うのだからと奮発して懐石料理で一献とあいなった。(写真右:加賀御膳)
話題は勢い安保法制となった。話に夢中となっていたので、じっくり“御膳”を論評するような食事にはならなかった。そこで今回は食の話は端折ることにします。
島田さんと私は前日に、場所は違うが国会へ出掛けていた。田中さんは国会で座り込みを終えた後の参加だった。島田さんからは、この会を終えてから3人で国会へ行きましょうとメールが来ていた。さすがにそれは止めてもらい、16日(水)に国会正門前で会えたら会いましょうということになった。安保法制に対する思いも、その阻止闘争への位相も3人ともほぼ同じ。安倍政権の酷さに話が集中した。野党議員の質問にしっかり答えられない安倍首相。その場面を報道ステーションははっきり放映していたが、紋切り方の、綺麗ごとしか放送しないのがNHK。マスコミ批判も多々あがった。
島田さんとは35年のお付き合いになる。思い出すことは数々あるがカードゲームのコントラクトブリッジとバドミントンが思い出深い。彼女はコントラクトブリッジなるものを向丘高校で広め、私は彼女と組んで四谷のブリッジセンターで行われた大会に参加したこともあった。向丘高校では、一時バドミントンが流行っていたが、彼女のドロップショットには苦しめられたな。仲間7・8人で行った雲ノ平山行に彼女も参加し、折立から新穂高温泉まで縦走したのだから、彼女も含め皆若く、体力があったのだ・・・。現在は「常盤台の景観を守る会」の中心メンバーとして”まちづくりニュース”の発行などで活躍している。
田中さんと初めて会った日は多分1979年4月7日。私が向丘高校へ初出勤の日。彼女は育休明けての初出勤の日で、手に同僚へのお土産を抱え、私のすぐ前を歩いていて校門に入っていった。神田上水の石樋が発見され、工芸高校前の地下現場を見学に行ったこともあった。職場が組合の指示通りの行動提起できない状況を何とか変えようと、ストライキ完全実施の修正案を出したが、賛成者は僅か3名。その一人が彼女で、言わば戦友だった。袋田温泉には彼女も私も子連れ参加だった。現在は積極的に海外に出掛けている。
彼女達お二人も含め5人で北穂高に登ったことがあった。北穂高から涸沢岳を経て奥穂高への稜線縦走。今思えば無茶なことを強いてしまったなとも思うが、涸沢でテントを張り、そこから眺めた素晴らしい紅葉は一生忘れられない風景だ。
定年後は3人だけで行った温泉も多い。島田さんは質の高いサービスを求める傾向が強かったので、その分値の高い宿が多くなった。菅平山麓にある「仙仁温泉」や「たてしな藍」は2万円台。熱海伊豆山の「蓬莱」は4万円台で、今では考えられない宿泊をしたこともあった。
その蓬莱は、星野リゾートの「界 熱海」にリニュアルされ、蓬莱と星野の共同経営となった。星野が経営に参加となればそれなりに素晴らしい姿に生まれ変わったとは思うが、江戸時代からの老舗旅館の一瞬を私たちは味わったこととなる。過去の羽振りの良かったときに色々と貴重な体験をしたものだと思う。
コーヒーショップで酔いを醒まし、21時過ぎ新宿を後にした。