初めて中里貝塚を知ったのは、今年の8月15日だった。尾瀬で知り合ったHさんにその遺跡現場を案内してもらい、案内版を読んだ。そのとき不思議に思ったことが2つあった。一つは、貝塚が5m近い堆積をなしていたこと。貝塚は言わばゴミ捨て場。どうして5m近くの高さにまでうず高くなったのだろうという疑問。もうひとつはこの貝塚の海抜は現在せいぜい5mほど。すぐ西にある上野台地は標高20m。4000年前の縄文時代にはこの辺一帯の目の前は海で”海抜0m地帯“のはず。普通、貝塚は水面よりかなり高い台地などに形成されたはずなのにという疑問。中里貝塚から比較的近くにある、北区の七社神社貝塚も西ヶ原貝塚も上野台地から発見されている。昨日散歩の時に見た動坂遺跡貝塚は本郷台地にあった。
上の2つの不思議に迫り、更には中里貝塚についての詳しく書かれた出版物はないと参考図書を捜していると絶好の本が見つかった。北区の飛鳥山博物館が編集し、教育委員会が発行した『奥東京湾の貝塚文化』だ。目を洗われる思いで、私が抱いた二つの疑問は溶解し、非常に面白く、何度か読み返している。今後数回にわたり、ブログに綴りたい。(写真:右図は本の表紙。そこに4.5mの貝の堆積している写真が登場している)
(貝塚は宇都宮線と京浜東北線の間にある) (中里貝塚史跡広場) 以下はその本の内容を私の理解なりにまとめたものである。
実は現在中里貝塚と呼ばれている辺りの様子は、近代以前の絵図や地誌に見ることが出来る。異常な量の貝殻散布の様子から、江戸時代の絵図には「蛎殻山(かきがらやま)」、「蛎殻塚」という地名が見られる。
明治19年には学会誌などにも登場し、早くからその存在は知られていたが、貝殻以外の食物残滓や土器・石器などの道具類が殆ど含まれない低地の貝塚で、本当に縄文時代の貝塚なのか自然に出来た貝塚なのかと論争が行われ、明治期の研究者を悩ませ、本格的な発掘は行われなかった。
それが、1958(昭和33)年になり、和島誠一氏の小規模なトレンチ調査の際に縄文土器片が2点見つかり、貝塚説を積極的に支持する材料が得られたが、湧水が激しく発掘は中止された。(写真:「中里貝塚を飛鳥山丘陵より望みたる図」) 1996(平成8)年になって、北区の公園整備事業に先立って発掘調査が行われ、約4.5mもの、国内最大厚の貝層や縄文時代当時の水産加工場の痕跡がみつかり、自然に出来た貝塚ではないことが明らかになった。この発掘調査の状況は新聞・テレビ・雑誌等で報道され、現地説明会には約3000人もの考古学ファンが駆け付けたそうな。今から20年前の話であるが、私は全く知らなかった。(見学風景)
この調査から中里貝塚は「ハマ貝塚」に相当し、そこが水産加工場だったことが分かったこと。次回以降のブログで詳しく綴りたい。