幼い頃の、忘れ得ぬ記憶はそのときの感情を伴っている。入ってはいけない場所に入ってしまい、そこの主人と思しき大男に追われた記憶は怖かった感情とともにある。戦病死した父の葬儀らしく、トラックの荷台に乗せられて町中を行く記憶には悲しさが張り付いている。
母に連れられていったお寺の記憶には、のどかな3枚のピースが連なっている。1枚目・陸橋から見下ろすと線路が見えた。2枚目・都電に乗っていた。3枚目ではお寺の本堂を回り込むと墓地に出た。
何時の頃だったか、母から、母方の実家の檀家寺は文京区の本郷肴町付近にあったと聞いて、3枚の、点だったピースが一つの線で繋がった。線は本郷通りだ。1枚目は駒込駅「駒込橋」の跨線橋から見た山手線。2枚目は都電本郷線(19系統)。3枚目は本駒込3丁目にある徳源院。記憶が繋がったのは、その通り沿いに暮らしているからかも知れない。今の家もその前の家も勤めた高校も本郷通りに面している。(写真:徳源院)
徳源院は本郷通りを動坂の方へ少し入ったところにあるが、そのお寺さんとの縁がこんなに深くなるとは予想もしなかった。定年になり、ラジオ体操後の散歩の途中、徳源院の裏手で7時の鐘の音を聞くという偶然。この数年は、毎年のように、大晦日に除夜の鐘を撞かせて頂いている。
一昨年「文京区海岸物語」のイベントに参加した折に、案内された寺は南谷寺の次が徳源院で、その時初めて両寺に建てられた「コロボックルの碑」を知った。
ラジオ体操に参加する、かつては動坂1番地に住んでいた年配のご婦人から面白い話を聞いた。「目赤不動のところにあった日限地蔵さんを徳源院さんがずうっと面倒を見ていてね、その縁で徳源院に移ったのよ」と。彼女の檀家寺は南谷寺だった。 水上勉の『東京図絵』を読んでいたら、「蓬莱町」の稿では「山手線を駒込駅で降り、市電で追分町へ出て北へ戻った。駒込蓬莱町は、追分町と吉祥寺の中間にあった」とあった。私の記憶に残る風景と同じ風景。
「動坂目赤不動」の稿では「動坂を歩いた。徳源寺はすぐ見つかった。門を入ると禅刹らしく掃除の行き届いた庭に石畳の参道。突き当りに本堂。右手に庫裏があった。・・・」(徳源寺と書かれているが、徳源院が正しいと思う)
水上さんはそこで「コロボックルの碑」を見つけ、そこに刻まれた文字を読んだ。私も撮影したことがある碑だが、読み取れない文字が多々あった。有り難いことに『東京図絵』には、そのほぼ全文が活字で書かれていて、それが私の理解を深めてくれた。(写真:右は『東京図絵』より)
下が徳源院で撮影した碑。