昨年、妻が『吾輩は猫である』を再読した時に気が付いたことで、私の発見ではないが・・・。
『猫』文中に「巣鴨」という文字が登場するそうだ。(以下ページ数は『現代日本文学大系17 夏目漱石集(一)』より)。例えば
(1)p130 「・・・ 在巣鴨 天道公平 再拝・・・」
(2)p139 「・・・天道公平事(こと)実名立町老梅は純然たる狂人であって、現に巣鴨の病院に起居している。・・・」
この文章から天道公平が入院している巣鴨の病院について、その病院は何処にあった何という名前の病院かを調べたらしい。その結果、ネット上「江戸東京医学散歩」(http://sisoken.la.coocan.jp/edotokyo.html)なるサイトに行きつき、「巣鴨」は巣鴨病院と分かり、私に教えてくれた。 そのサイトの70番目の話題として「日本医師会館・文京グリーンコート:旧理化学研究所跡・東京府巣鴨病院跡」が取り上げられ、「『江戸東京』で、榊俶の事跡を調べていて、日本医師会館や文京グリーンコートのある周辺一帯が、明治から大正のはじめまで東京府巣鴨病院(明治19年6月21日新築。旧小石川区巣鴨駕籠町から旧本郷区上富士前町)の敷地であったことがわかりました」とあった。
ここで初めて、私は現文京グリーンコートの周辺一帯の前身が東京巣鴨病院であることを知った。(写真:グリーンコート内の理研の写真)
「巣鴨病院の跡地に建てられたのが理化学研究所と府立5中(現小石川中高校)」との記述をほぼ信じたが、このサイトの文章だけに頼るのではなく、他の情報も知りたくて、府立5中の資料を公開している、小石川高校(現在名 小石川中等教育学校)を訪ねた。 事務室でその旨を告げると、資料室の鍵を渡された。そこからは自分だけの行動だった。資料室には色々なものが展示されていたが、右の「小石川検定」がその間の事情をよく説明していた。そこに書かれていたことを要約する。
「府立5中は大正7(1918)年、小石川区駕籠町の東京府巣鴨病院が移転した跡地に建てられた。校地の候補地は幾つかあって、上富士前にあった牛舎や荏原郡松沢村上北沢の都立松沢病院に移転する東京府巣鴨病院跡地が候補に上がっていた。府立病院の方がほうが費用が安く済むので巣鴨病院跡地に決定した」とあった。
それ以外にも面白い事が書かれていた。
「岩崎家別邸やその周辺はうさぎやたぬきが生息する土地でした。明治中頃より牛乳の需要が高まり 東京市内への牛乳の供給のため本郷から巣鴨周辺に牧場や牛舎がかなりあった。駕籠町から上富士前に抜ける不忍通りもまだありませんでした」
整理をすると現グリーンコートの敷地は、その前身を遡って行けば、グリーンコート⇒科研製薬⇒理化学研究所⇒巣鴨病院⇒岩崎駒込邸⇒柳沢下屋敷となる。 小石川高校の創立が1918年と知り、今年が創立100周年。盛大な式典が行われるだろうなと推定している。巣鴨病院は松沢病院へ移転したとあるように、そこには精神科が置かれていた。(写真:府立5中開校数年後の写真。不忍通りはまだない)