マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

我が母校小山台、甲子園の土を踏む

2014年03月22日 | 学校

 我が母校、都立小山台高校が、21世紀枠で選抜高校野球大会に初出場したが、11-0で大敗し、都立高校の初戦突破は又も夢と消えた。9回一死までノーヒットという状況で、ノーヒット・ノーランという不名誉な記録を刻んでしまいそうな状況が続き、ハラハラの思いで見続けたが、代打竹下君の内野安打で、漸く危機を脱したのだった。
 あまり芳しい結果ではなかったが、母校の出場は嬉しかった。(写真:テレビ画像より、開会式で入場行進する小山台ナイン。以下いずれも同じ)





 私は定時制出身だから母校という言い方は正確ではないかも知れないが、在学当時、全定合同で文化祭を行い、現在は「小山台教育会館」を一緒に運営する仲、心理的に近いものがある。勝手に我が母校と呼ばせて貰おう。何しろ中学卒業後は、小山台高校定時制⇒埼玉大学⇒都立大(研究生)と進み、母校の活躍がテレビに映し出されるなどとは無縁の学校に学んで来たのだから。
 画面には校歌が流れ、久し振りに聴くこの曲、一緒に口すさんでいた。学校紹介では、懐かしい事柄がいくつも紹介された。クラブ活動の部の名称は、野球部ではなく野球班、定時制も同じで、私が属したのは社会班だった。
 母校は昨年90周年を迎えたが、前身は府立八中。一瞬、シンボルの八角塔の映像も流れた。揃いの、黄色のブレーカーを羽織った4000人以上の大応援団。この様な日がやってこようとは思わなかったOBや現役も多くいたことだろう。2006年にシンドラー社製のエレベーターの事故で亡くなった、元野球班員市川大輔さんの遺影を抱いたお母さんの姿もあつたそうな。
 狭いグランドも映されていた。期末試験が終わると、このグランドで、ソフトボール大会が行われた。我がクラスは決勝まで進んだが、捕手をやった私のエラーが原因で、相手に決勝点を与えて惜敗。情けなかった思い出もふと胸を横切った。高校生のくせに、残念会に一杯と、キャプテンは担任の安永先生を誘ったが断られた。(写真:野球班とある)

 都立高校は夏の大会には4度出場している。1980年に国立が、その後城東が2回、雪谷が1回。城東は義弟が野球部初代監督だったので、しっかり記憶されている。いずれも 初戦突破には届かなかった。
 狭いグランドで、他の班とも活動を分かち合いながら、午後5時には完全下校という乏しい時間内での活動で、秋の大会では早稲田実業や堀越学園にも勝利したという。小山台の球児たちよ、胸を張って帰れ。思い出のキッカケを有難う。


  (武蔵小山商店街のアーケイドも見える)


   (キャプテンを中心にして班員たち)


     (応援席と校歌)


    (応援団と校歌)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。