2015年4月7日
呼子を出て50Kmほどの伊万里に着き、適当な所で野宿しようとしたけれど寒くて駅の案内所でホテルを紹介してもらう。
フロントに、60才前の男性がいた。主に建設作業員向けの格安ホテルだったが、泊めてくれた。
病気で命拾いしたのをきっかけに経営していた建設会社を畳んで、2年間の車旅に出て、途中で違反が重なり免許を失った後はバスで廻ったという。その執念に脱帽した。
2015年4月8日
7:00に呼子を出発し、長崎県・平戸の生月島を目指した。およそ80Km。
《名護屋城博物館からの城壁の眺め》
《名護屋城の復元予想ジオラマ》
ほどなく名護屋城跡を通過した。秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の拠点として諸大名による割普請(わりぶしん)で、わずか5ヶ月で築城した。自身も1年余り在陣している。
1592年の開戦から秀吉の死で諸大名が 撤退するまで、7年の間大陸侵攻の拠点となった。
その後、城は幕府への謀反を恐れ、居城以外の城の破壊を命じた江戸時代初期の「一国一城令」により破壊されたと考えられている。石垣も広範囲にわたって壊されていた。
城の面積は約17ヘクタールと広大で、当時では大坂城に次ぐ規模を誇った。
周囲には130以上に上る諸大名の陣屋が構築され、20万人を超える人々が集ったという。
《名護屋城 天守閣跡地 2021.12.10》
自転車旅の時は城壁沿いの道路を走っただけだったが、先日のドライブで天守閣跡まで登ってみることが出来た。
兵どもが夢の跡。
秀吉は一体、何のために巨大なエネルギーを使って大陸侵攻を考えたのだろうか。
名護屋城跡を見てから佐賀県・伊万里を経由して、源平の合戦(平家方)や元寇との戦い、朝鮮出兵で活躍し、大陸文化の摂取にも努めた「松浦水軍」の発祥地である長崎県・松浦市に着いた。
ひたすら玄界灘の島々を眺めながらのツーリングだった。
松浦家は平安時代末期からの古い家柄で、江戸時代は平戸藩主として、平戸島をはじめとして、 おおよそ現在の佐世保市から北松浦半島、壱岐市、五島列島の一部を含む範囲を治めていた。
外国との海洋交易によって藩の振興を目指していた。
安部政権の末期のまともに国会答弁も出来ない大臣がここの出身と知って、随分スケールが違うものだと思ったことがあった。
この日の宿泊地の平戸まであと20Km。(つづく)