対馬藩主であった宗家の菩提寺が厳原にある。初代藩主・宗義智(よしとし)の長男・義成が父親の法号に因んで万松院と名付けた。
事務所で対馬藩を揺るがせた「国書偽造事件」の話を聞いた。
家に帰ってから調べてみると。。。
秀吉から義父の小西行長とともに朝鮮出兵の先鋒を命ぜられた義智は、戦後は家康から一転して和睦に取り組むよう命ぜられる。
義智は藩の財政のためにも途絶えた貿易を再興したい一念で懸命の努力をする。そんな中、李氏朝鮮から国交回復の二つの条件を突きつけられた。
朝鮮出兵時に「朝鮮国王の墓を荒らした人物の引き渡し」と「徳川家康から朝鮮国王への国書の提出」だった。
ひとつは罪人を差し出して解決出来るが、「国書の提出」は難題だった。先に出した方が隷属することを意味するから家康が了承するはずがない。
義智が取った行動は“二枚舌外交”だった。
朝鮮には家康の名を用いた偽の国書を提出し、国書の返書を携えた使節団が家康と第2代将軍・秀忠に謁見する段になって、その返書までも偽造し本物とすり替えた。
こうして対馬と李氏朝鮮との間の交易が復活したが、以後、対馬藩では朝鮮から使節が来る度に辻褄を合わせるための国書の偽造が続けられた。
何だか両者の言い分を聞いて無害な立場を保つことに優れた岸田首相の政治手法を思った。
この件が発覚したのは実に30年後のことだ。長男の義成の時代に、時の家老・柳川調興が対馬藩の秘事を幕府に密告したからだった。
幕府直参になろうと画策する調興と義成の間の確執が原因だったという。
寛永12年(1635年)に3代将軍・家光の御前で、宗義成と柳川調興の双方の申し開きが幕府の旗本と大名の衆目の元に行われた。
結果は、朝鮮との交易は従来通り対馬藩に預けるべきと判断され、義成は無罪、調興は津軽へ流罪となった。
こうして幕閣を揺るがした対馬藩ぐるみの国書偽造事件は一応の決着をみた。
私益より国益を重視したと考えれば納得がいくが、事はそう簡単ではなかっただろう。長い間の暗闘、評定後の遺恨が想像される。
顧みて今。
森友、加計、桜、1.5億円、学術会議・・・・。
杜撰なコロナ対策予算、オリンピック予算の執行・・・。
今も私益に塗れた疑惑が満ちている。
総選挙が終わり、世間もメディアも安倍・管政権の政治疑惑を忘れたかのような間隙を突いて安倍派が巧妙に旗揚げした。
政治の基盤は信頼と透明性である。政権と当事者が不誠実な対応を続けて30年後に残っている僅かな歴史資料が公開された時にはそれ迄に失った国益も多々あるだろう。
政権交代という〝評定〟を今どう実現するか、野党第一党の立憲民主党の正念場だ。どちらの意見も聴いて迷走することは最悪である。
対馬藩の国書偽造事件、大変勉強になりました。
そして偽造が露見してからの収め方も日本らしいですね。
この場合国益を考えたということで、それなりの納得感がありますが、安倍元首相の場合は弁解の余地ありません。
さらに厳しく追及すべきですね。
洋の東西を問わず、時代を問わず、似たようなことをするものと思いました。
安倍の復権は低劣な悪行が暴かれないためのダメ押しです。それだけ恐れているということでしょう。政権交代しか政治の浄化の道はありません。立憲の代表選びがその再出発になるかどうか、注目しています。
『顧みて今』の前と後と、これは文章構成の上では前が比喩、後が現実物話ということになります。こういう歴史の比喩話はしない方が良いと思う。全く別の話であって、論理的必然性もない「歴史話」になってしまうから。歴史と物語とを分けたいということですが・・、どんなものでしょうか。