季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

自然

2008年08月05日 | Weblog
大自然という大げさな言い方は一応措いて。

僕は人一倍自然が好きだ。さて今これを読んだ人は何を思うか。私もそうだ、緑の中にいると心休まる、という人もいるだろう。海を思い浮かべる人も当然いるだろう。

なかには気難しい人がいて、なんの根拠があって人一倍好きだと断言できるのか、と不愉快そうに考えるだろう。

僕はただ「自然保護」という言葉が嫌いなのだ。そしてそれに関連する運動をしている人に一種の違和感を持つのだ。前の記事で自然派女史を苦手としている、と書いたのと同じことなのだ。

自然を人一倍愛するといいながら「自然保護」は好きではないというのは、ずいぶん筋の通らぬ話ではないか、と思う人も多いだろう。

僕が抵抗感を持つのは「保護」という言葉に対してである。自然を保護しよう、保護しようと叫ぶうちに、なにかしら、人間がか弱い自然を守ろうといった、無意識の働きが生じないだろうか。

守られなければならないのは、主として緑であろう。でも、僕は今、庭の雑草に手を焼いている。あっというまに伸びる。出かけるときに気づいて数本抜くのだが、次の日にははるかに勢い良く成長している。このたくましさには本当に感心する。

雑草はそうでしょう、でも森林単位で考えてごらんなさい、毎年どれだけの緑が失われているか。その通りだが、放っておけばよい。人類がいなくなれば、死に果てたような地面からも、雑草はあっというまに生い茂り、やがて樹木も育つ。自然は人間よりもはるかに強い。

そもそも、自然といえば山、川、海と連想が働くのは僕たちが住む土地の特徴を反映しているだけだろう。しかしサハラ砂漠だって自然だし、火星の荒涼とした風景だって自然なのだ。もっとも火星は行ったことないけれどね。おっと、サハラ砂漠もなかった。

むかし日本のある水産加工会社がアラブで缶詰を売ろうとしたが、まったく売れなかったそうだ。味覚テストではよい結果が出るにもかかわらず。なぜか。それは缶詰にお日様のマークが入っていたからだそうだ。

照りつける太陽に苦しめられている人々にとっては、太陽は呪うべきものなので、かの地では月が恵みをもたらすシンボルなのだ。それも三日月が。熱い地方にある国々の国旗に三日月が多いのはそうした事情だそうだ。わが国もこう暑い日が続き、しかも年々気温が高くなっていくのだったら、日の丸はたまらん、という気持ちになったりしてね。

人間は緑が無ければ生きていけない。子供でも知っている。だから保護しなければ、ということなのだが、保護という言葉を使っている限り、危機感を高めようという訴えは心に届くことはあるまい、と思っている。

自然は、ここで大自然はと言いなおしてもよい、俺の知ったことではない、とせせら笑っているのだ。ため息しか出てこない。やがては地球も太陽に飲み込まれていくのだそうだ。大自然というのは、けっして人に優しくはないのだ。

脱都会も結構だ。僕もそういう感情を持つ一人だ。緑をこよなく愛す、と言ってもよい。庭を雑草だらけにするくらい緑を好む。だが、他人から庭の雑草は大自然ではない、と説教される筋合いは無い。途方もない宇宙という自然からみれば、アマゾンのジャングルだって大自然ではない、とイヤミのひとつも言いたくなる。

ぼんやりと雑草を眺めやりながら、人も犬も猫もいなくなっても地上をこうして草や蔦が覆い始めるのだ、と感慨にふける。なんともろいことか。

都会の「人工的な」緑を愛でることを馬鹿にしないほうがよさそうである。そうだ、雑草を抜くのはやめておこう。